マッカーサー元帥は日露戦争直後父親の赴任に伴って自身も
軍人として日本に来ていたそうです。
また関東大震災の折当時の大統領の命を受けてフィリピンの駐屯地から
いち早く、18艘の艦隊を組んで日本に駆けつけてくれたと
当時横浜の港で船員の通訳をしていた祖父が話していました。
その時の合言葉は一分早ければ一人助かる
minutes make a lifeだったそうです。
祖父は地震発生時停泊中の船と共に沖に離れていたことが
祖母に発覚し、尚且つ避難する最中に祖母が宮城に上がった時に
賜った一振りと雨傘を間違えて崩壊した自宅から持ち出したことと
ともに生涯に渡り祖母からの怒りを買っていました。
元新聞記者であった私の祖父は通訳として
横浜の港で働いていたので
マッカーサー氏が震災の折と最高司令官として
横浜に来られた当時の様子や震災に遭った横浜の町の世情や
連合国最高司令官として来られた時の通訳の端くれとしての経験を
大学ノートに詳細に認めていたのですが
全て英語で書かれていたために祖母には理解されず
私がノートの存在を訊ねた時には単なる祖父の日誌として
祖父の亡骸とともに荼毘にふされてしまっていました。
祖父からいつか必ずそのノートを読むように言われていた私には
祖母の気持ちを量り知ることは不可能でした。
実際を目の当たりにした人によって綴られた
大正そして戦前戦後の横浜の様子を見ることが
出来たかもしれないと思うと、今思い起こしても残念です。
