再会と別れ | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

薬を与えようにも、このような状態で、その薬を得られる訳もありません。
 
もう、どうして良いか判らなくなりました。
 
このままでは、我が子は死んでしまう。
 
この子が死んでしまったら、私はどうなってしまうんだろう。
 
いいえ、病気のわが子を連れて、どうやって日本に帰れるのだろう。
 
身重の彼女は心細さで押しつぶされそうでした。
 
ところが、そのとき、シベリア行きを逃れた夫が、薄汚い軍服で突然彼女の前に現れたのです。
 
一緒に出兵した五人の仲間と、日本人が飛行場にいると聞き、一縷の望みを託して、ただただ夢中で探し当ててきたのだと言いました。
 
妻や子どもたちの様子を目の当たりにした夫たちは、このような状況では、明日をも知れない。と、遠くの町まで、自分たちが住める家を探し回りました。
 
何日かすると、朝鮮方面に全て逃げてしまって、空き家の家がある、ということで、その家で暫く暮らそうということになりました。
 
辿り着くと、家の中は中国人たちの略奪にあい、家具はおろか、布団一枚もなく、ガランとしていましが、それでも三部屋あったので、共同生活をすることにしました。
 
その土地が長春。M子さんの生まれた地です。
 
息子も、父親の顔を見ると、安心したのか、少しずつ元気を取り戻し、夫も、街に出ては、中国人から高い薬を得て来て、口に入れました。
 
けれど、息子は薬すら喉を通らず、ただ呻いて喉の渇きを訴えるだけでした。
 
暫くすると、親切な中国人が布団をくれて、親子三人で、その布団にくるまって寝ることが出来ました。
 
息子は、そうやって三人で寝ていると、うめき声も出さず、穏やかな眠りについていました。が、すこしして、彼女と夫の顔を交互に見ると、一筋の涙を流し、そして死んでしまいました。
 
周りの人に気づかれないように、父と母は、冷たくなっていく我が子を抱きしめて暖めていると、子どもの頭から、何匹もの虱が逃げていきます。
 
二人は、黙々とその虱を殺しながら、朝を迎えました。