格納庫 | ミナミのブログ

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

長い長い貨車の旅の末に辿り着いたのは、すいか(現綏佳市)という駅
 
※ 佳木斯から綏佳まで、直線距離にして、257キロです。
また佳木斯と綏佳を結ぶ、綏佳線が開通したのは、昭和15年12月だそうです。
 
時はすでに夕暮れになり、中国政府との交渉の結果、彼女たち難民は、真っ先に安全な地を目指した
軍人とともに飛行機の消えた格納庫に収容されることになりました。
 
満州国開拓として、日本から行った人は、どれくらいの数だったでしょう。
その人たちが一斉に、日本への逃避行を始めたのです。
 
だだっ広い格納庫も、人で溢れ、ただ横になれるだけの隙間しかありません。
 
その上、下は冷たいコンクリートの床で、薄い茣蓙が敷かれているだけでした。
 
それでも、屋根のある場所で、手足を伸ばして横になれる嬉しさに、子どもたちにも笑顔が戻りました。
 
しかし、持ってきた食料は雨に打たれ、ふやけ、飯盒も見あたりません。
 仕方なく、近くの畑に転がっている鉄兜を鍋代わりに、そのふやけた食料を入れて炊いて食べるという日が
続きました。
 
そんな日が一月も続いたある日、腹巻きを解くと、たくさんの虱が蠢いていたのです。
 
北の大地の八月は、既に冬の装いを始め、寒さもいっそう増していきます。
 
その上、暦一つ無く、今日が何日であるかさえ、判らず、ただただ、日本へ帰ることだけを願って暮らしました。
 
そんなある日、誰かが突然、日本はついに戦争に負けた!と叫びました。
 
周りは騒然とし、デマだ、と、口々に言い合いましたが、現実を知るにつけ、これからどうなるのだろう、
という不安が心を占め、気持ちが焦るばかりでした。
 
そんな中で、体の弱ったお年寄りや、栄養失調の小さな子どもが、一人、また一人、と亡くなっていきました。
 
若いお母さんが、高台へ行き、凍てついた大地を掘り起こして、幼い子どもを葬って、小さな墓を作る。
 
その土饅頭が、一つ、二つ、と増えていき、いつか我が子も、と、胸の痛む日々でもありました。
 
その杞憂が現実のものとなって、我が子にも襲ってきました。
 
はしかを患ったのです。口の中にも発疹が出来、何も食べられなくなりました。