だから、今までの横道のお話は置いておいて、本筋に戻りますという意味。
これに似たもので、確信犯というものがあります。
確信犯とは、結果を確信して行うのではなく、その行為が正しいこととして行い、結果犯罪になること。
思想犯・政治犯・国事犯などですから、その国自体の意識が変れば、犯罪ではなくなる可能性もあります。
もう一つ、役不足。
これは、自分にとって、その役では、軽すぎる、ということ。
日常の中で、今のような言葉を使っても、それほど人は不思議にも、不愉快にも思われないし、
時には、そんなものかな、と過ぎてまうものですけど
インターネットのウェブ上に載せる文章を書き始めたときに、
それまでの私信とは違い、公の物、という意識を持って書くということで、
悩まされることが多々あります。
先ず、言葉の変化。
例えば、横浜の外国人墓地。
この言葉を最初に目にしたとき、外国人墓地って何処にあるのだろうと思ったものです。
赤い靴 という歌も大らかに歌えないことを知りました。
私は半世紀に渡り、日本から、否、横浜から、まあ、数日間は出かけたけれど、その他は全く出たことが無いに
等しいにも関わらず、私の知らないうちに、
日本語というものにたくさんの規制が敷かれていたという事実を数年前に知りました。
その一方で、言葉の結界といえる部分を超越したようなことをメディアでは日常茶飯事繰り返しています。
数年前、某全国紙は、閑話休題というコラム欄を設け、かの国営放送では、ママチャリなどという言葉を
平気で使っていました。
不思議な国です。
ところで、昨年、モンゴルに滞在中の夫宛の住所を筆記体で書いたら、
郵便局のお兄さんが苦渋の顔をして読みにくいといっていたので、
私の文字はそんなに下手ですか?と聞くと、いいえ、というから、お世辞なのかと思ったけど、
近年の子供たちはオロカ、肝心なアメリカ本土でさえも、筆記体の英語はお年寄りしか書かないそうで。
いやはや