
そのことを記念して、昭和57年の今日、ふるさとの日、となったとか。
福井県では、この日の今日、いろいろな催しをする、とありました。
小田原藩が神奈川府という仮の形から、神奈川県とされたのは1868年9月21日のことだそうです。
横浜市民の日、というのは思い出せても、神奈川県民の日はトンと思い出せません。
思い起こせば、小学校も、中学校も、横浜市立で、高校は私立でした。
学校といえば、その学校へ通える時間は、人生80年と言われる時代では、高校まで行っても、
12年、大学へ行けば、16年、四分の一にも満たないわけです。
当時それを知っていたかどうかは定かでは有りませんが、私は、横浜の中華街の西門(延平門)の
脇の中学に通っていた頃、なぜか学校に通うのがとても楽しみでした。
その学校の建物は、その昔横浜小学校といい、また、ハマの学習院とも呼ばれ、当時の名家の子弟が
通っていたそうです。
そのためか、校門の脇には、生徒を待つための運転手室の名残もあり、
校庭には大きなヒマラヤ杉が立っていて。
何よりも、その建物の古めかしい中に息衝いている時の流れが魅力的でした。
夏の日に、部活の後、ヒマラヤ杉の根元で一休みするのも楽しい時間でした。
中華街にはそんなわけで、当時の同級生がたくさんいて、一層のこと、懐かしい場所でもあります。
そんな中華街が、最近、頓に、日を追う如く変わっています。
猥雑という理由で赤い電信柱が消え、跡継ぎがいないという理由で行き慣れた店が閉店し、
櫛比の如く立ち並んでいた路地裏の家も消え、
ついでに、中国人の婦人同士の互いに通じない中国語での怒号も消えて。
市場通りの八百屋さんも、發三電機も閉店してしまいました。
ふるさとは遠きにありて思うもの、とはよく言ったものだなあと思う今日この頃です。
ところで、神奈川県の日はいつなのか、調べてみました。
1868年3月19日(旧暦)に、神奈川奉行所を横浜裁判所に名称変更したことに由来し、
県庁の日、とありました。
そういえば、中学時代、コーラス部で、県の歌(光あらたに)を、キングと呼ばれる県庁庁舎で
歌ったことがあります。