伊東マンショの肖像画の他にも興味深い展示品ばかりな東京国立博物館本館7室ですが、二つの三聖人像についての説明が途中で止まっていましたので、その続きを。
左の絵のカンバスは麻製で、右のそれは木綿製です。カンバス以外にも、絵画技術の高低の違いが見られ、左のほうが技術が高いです。どちらも16~17世紀の作品ですが、左は外国人宣教師による舶来品で、右はセミナリヨで西洋絵画技法を学んだ日本人による模写のようです。九州各地のセミナリヨでは1583年(日本では天正11年)に来日したイタリアはナポリ出身の修道士ジョヴァンニ・ニコラオ(1560~1626)が日本人の少年達に絵画と銅版画を教えていたそうです。キリスト教禁制前の日本でルネサンス期の絵画技法が学ばれていたとは興味深いですね。
勿論、伊東マンショの経歴についての説明も、この東京国立博物館本館7室ではちゃんと書いてあります。
彼は日向国都於郡(今の宮崎県西都市)出身で、都於郡城主伊東義祐の孫に当たり、義祐の娘町上と伊東修理亮祐青の子供です。彼にはジュストと言う弟が居ますが、町上の兄の義益は大友宗麟の妹(一条房基と姻戚関係あり)の娘阿喜多と姻戚関係にあり、義賢(バルトロメオ)と祐勝(ジェロニモ)の兄弟が生まれています。
天正5年(1577)、島津氏の日向侵攻(確か、耳川の戦いがどうのこうの書いてありました。)により、伊東一族は縁を頼って豊後(大友宗麟ですね。)に逃れますが、マンショは父と死別する母とも別れるで寺に身を寄せて幼少時代を過ごしたらしいです。天正8年(1580)に洗礼を受けてポルトガルはエヴォラの古代の殉教者に因み「マンショ」と名乗ると、ヴァリニャーノが有馬に設立したイエズス会のセミナリヨに入りました。ヨーロッパからの帰国後は正式にイエズス会に入会し、勉学を重ねて司祭になりました。あの秀吉の覚えも良く、聚楽第での謁見の際には仕官を勧められた程ですが、その後の彼の人生は…。
7室にはキリスト教禁制後に関する展示品もありますが、これも決して無視出来ません。
それは…