第2章「魂の救済について」を再読して | LEO幸福人生のすすめ

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宗教的な価値観に回帰する機会が 与えられた面はあると思うのです。 つまり、それは、仏教の原点に 戻って、「 諸行無常」の意味を教えてくれたということです。

 

今まであった仕事がなくなったり、 昨日 まで元気に働いていた人がいなくなってしまったり、そういう「諸行無常」の姿を現実に見せられました。

 

 

宗教的な価値観に回帰すること、目覚めること。その機会。

 

ふつうに日々を暮らせているだけだと、わたしたちは「諸行無常」という言葉を聴いても、実感としての理解は出来ていないと思う。

ずっと同じままでいることは出来ない、すべてのものは変転変化して移ろいゆくもの、それが真実の世界観だと教わっても、

具体的に自分のこととして、たとえば仕事を失ってしまって昨日とはまったく立場が変わってしまう、親しく昨日まで元気だった人が今日はもうこの世の人ではない。

そういう三次元世界の我が事の現実の事件として、諸行が無常であることを、身をもって体験しないあいだは、どこか他人事の抽象的な教えの理解にとどまっている。

 

愛する人がいなくなってしまう、自分の側が逆に、愛する人を遺してこの世を去らないといけない、それが今日明日のことだったりする。

諸行は無常なのだ。ずっと一緒ではいられないのだ。同じ日々が永遠に続けられるわけではないのだ。この世は旅先なのだ。愛する家族であっても、旅先で出会った仲間であって、ひとときの道連れであって、いつか別れの時が来る。無常なのだ。

 

このことを思い知る。痛感する。

それが仏教の教え。仏教の原点。心で理解したとき、はじめて本当の意味での理解が訪れる。

 

「本来の姿」というのは、実在界、すなわち、あの世にしかありません。肉体も家も、その他のものも、すべて滅びていくのです。そのような、実体のないもの、 蜃気楼 のようなものに、人々は 惑わされているということです。 これが「諸法無我」の教えです … 

 

 

それと対比して、あの世の実在感を、ほんとうに魂で実感的に理解できているだろうか。まだまだ、この世の生に囚われていて、こっちが終の棲家のように思っていて、あの世は死んだ後に行く、どこか遠い別世界のように思ってしまってはいないか。

そうすると、この世で生きていても、まだまだこの世的な見方でモノを見、他人を見、自分を見ているのかもしれません。あの世的に、実在世界の視点から、自と他と世界を見ることなど、まだまだ出来ていないのかもしれません。

抽象的な言語理解をしているだけでは、真にわかっているとは言えない。

 

これは、今、仏教の原点に戻っているのだと思います。

 

 

この世の悲劇や無常を痛感した時にこそ、仏教の真なる価値、その重要性がようやく感じられてくるのかもしれません。

 

この世の世界だけがすべてだ」と思えば、この世のものが失われた段階で、その人の幸せは 崩壊 してしまい、二度と取り返せないことになります。

 

 

宗教を勉強していても、こうした悲しみの気持ち、絶望の気持ちから無縁ではいられない。そんな達観した覚者のようにして、泰然自若として動じない、というわけには、なかなかいきません。自分自身そう思います。

 

実在界こそが本当の世界であり、最終的には、死後、幸福な世界に 辿り着くことが大事です。そして、そこに辿り着くための、この世での生き方を説くことが仕事の中心なのです。

 

 

宗教の教えを説いていることの意義は、あの世の実在世界こそが本当の世界なのだ、そこへ至るための、この世の人生であったのだ、この世でどう生きるべきかの教えなのだ、ということ。

 

そのための第一歩は、最初に述べたように、 廻心 の原理です。この世的な価値観に完全に支配されている頭をクルッと回転させて、神仏の側から見た価値観に合わせなければいけません。人間のほうが、神仏の考える価値観に合わせなければいけないのです。「この世的なものに 執着 しすぎてはならない」ということが出発点です。

 

人間が、人間心だけから世界を見ていたのでは、真実の世界はわからない。

なぜこんな悲劇に見舞われないといけないのか。神も仏もあるものか、と嘆く人もいるかもしれないけれど、それ自体が、人間心からのみ見た世界観であって、神仏がどう見られているかをまったく見落としている、神仏不在の世界観ゆえの嘆きです。

神仏が人間を、世界を、どう見られているのかを見ないといけない。神仏の考える価値観に、人間の方が合わせないといけない。

この世は仮の世界なのだから、この世のものに囚われすぎてはいけないのだ。それは執着なのだ。この世を去る時には捨てていかないといけないものに、執着してはいけないのだ。

 

仏教の伝統的な考え方によれば、「死というのは、ある日 突然 やって来るものであり、事前に準備ができるようなものではないのだ」ということです。

 

死はある日突然やってきてしまう。

ふつう人は、今日があったように、明日もあると思っている。明後日もあると思っている。来月も来年もあると思っている。

しかし自分には、その時間は無いかもしれない。今日で終わりなのかもしれない。

そういうことを教わっていても、どこか他人事で、自分には明日と明後日があると思ってはいないだろうか。わたしはそうでした。わかっていなかった。

仏教は遥か昔に、この永遠の真理を教えてくれているのに、いまだに人間は、今日があるように明日もあると思っている。そうとは限らない。ある日突然、死は訪れるかもしれない。そちらの方が真実です。

 

ある日突然、潮が満ちてきて、満ち潮に連れ去られていくように、この世から連れ去られていくのだ」というのが、仏教の基本的な考えなのです。 したがって、一日一生の気持ちで、「日々、今日で命が終わってもよいような生き方をする」ということが大事です。

 

だからこそ、一日一生。一日一日が大切。黄金の時間であるのだということ。

無造作に、ただの一日だから、まぁ今日はこんなもんでいいや、寝よう、では、一日一生ではないでしょう。生きつくしていないのだから。

 

今回の震災等を見ても、「この世で得たものは、何一つ、死後の世界には持って 還 れない」ということが、はっきり分かったと思います。 家も、財産も、家族などの人間関係も、仕事も、持って還れませんでした。持って還れたものは、本当に心一つだけだったと思われます。

 

その心がどうであったかは、日々の積み重ねであるため、ある意味で、いつも死の準備をしていなければいけないのです。


突如襲ってくる死の時は、平常時においても同じことです。思いもよらない時に、自分の命が終わるとしたならば、そのときの自分の心は果たして、神仏の心に適うような心境にあるだろうか。

日々の積み重ねにおいて、豊かな心を築きつつ、生きてゆかないと、いざその時が来たときに、及第点には届かないかもしれない。

一日一日の心の修行が大切ですね。

いま抜き打ちでいきなり、お前の今日の心はどうか?!と問われたときに、大丈夫です!と答えられるような、そうした生き方をしたいものです。