「今」に囚われ過ぎていると、悩みから抜け出せない | LEO幸福人生のすすめ

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前の記事から連想して、いろいろと考えていたら、

 

ああ、何かで悩んで、そこから抜け出せなくなって、あーでもないこーでもないと悩みが続く時って、

 

「今」というこの時、この瞬間に囚われ過ぎていて、大きな目で見て達観するとか、長い視野でもって鷹揚に構える、ということが出来ていない、ってことだな、ということに気づく。

 

今を生きることは当然大切なのだけれども、あまりにもこの「今」にばかり囚われ過ぎてしまうと、今この瞬間の自分の気持ち、悩んでいることに右往左往する状態、そうした状態から逃れられずに、無駄に悩む、ということになりかねないのだな、と。

そんな風な考えが浮かんできました。

 

 

わたしたちは、永遠の生命を生きていて、今から数十年生きたら、たいていの人は死んであの世に帰ることになるわけだし、いまこの時から振り返って数十年前を思い返せば、この世にまだ自分は生まれていないこともあるわけで、

そうしたことを知識では知っていたとしても、「今」この時に囚われている瞬間というのは、今の悩める自分の気持ちで心がいっぱいになってしまっていて、数十年後の自分がいまの自分を見たらどう感じるか、はたまた、生まれる前の自分がいまの悩める自分を見たら、その悩みの小ささに唖然としやしないか、そんなことは考えもしていないように思えるわけである。

 

魂の兄弟姉妹たちを含めた、大きなスパンの転生計画というものは、2000年くらいの長い期間をふまえて考えられているものだ、という。

その2000年という長いスパンから見たら、いま自分が悩んでいることというのは、そんなに七転八倒するような大問題なのかといったら、たいていの場合、そこまで大きな問題ではないはずなのだ。

たとえば受験で合格するか失敗するか、不合格になって浪人期間を何年も過ごすはめになったら、それはその最中には大変な失敗を自分はおかしているように思うかもしれないが、数十年後の自分から振り返ったら、1年や2年の遅れはどうってことのない小さな問題かもしれないのである。

実際、トントン拍子で進学して、いい会社に入った人がいたとしても、後がよくないかもしれないし、2年くらい遅れを取ったとしても、あとでその遅れを取り返したら、数十年後の二人を比べたらどちらがよかったか、の判定はまた違ってくるはずである。

学生時代のことを振り返っても、小学校の時にはあいつは勉強が良く出来ていたよなーという同級生が、その後はなんか普通レベルになってしまったり、それは中学生の時に出来た生徒とか、高校の時にはよかったけど、という生徒にも言えることで、これは学力の話ではあるけれども、その他全般を見比べても、人の一生はそれこそ死ぬ時になってみなければわからない、というところがあるように思えて仕方がない。

途中まではよかったとしても、後がよくない人生と、スタートは遅れたけど、徐々に上がって行って、最期は人生に悔い無しという境地で死ねる人と、どちらが幸せであろうか。

 

そのようにして、数十年後の自分の立場になって、いまの自分を見てみる。あるいは、生まれる前の自分の人生計画予想から、いまの自分の迷いを見てみる。さらには、それをもっと長い目で、2000年スケールで見たら、どのような悩みでも、実にちっぽけな、ささやかな悩みだなー、と思えてきて、そういう境地に至れれば、人は達観して、いまの悩みからある程度は抜け出せるようにも思える。

 

あまりにも、今この時、今の自分のこの苦しみ悩み、ということで心がいっぱいになってしまうと、そこから抜け出せないようにも思うし、そんな時に達観など出来るかと言いたい気持ちもわかるけれども、達観できないということは、本当の意味での転生輪廻の意味、永遠の生命の意味を、まだぜんぜん自覚できてないってことじゃないの?

と言うことも出来るわけです。

 

今に囚われている自分に気づいた時にこそ、数十年数百年数千年レベルの長いスパンで、いまの自分の悩み、人生を見たらどうなのか、本当にそれは七転八倒せざるを得ないような、世界が終わるかどうかというような大問題なのか、自分にとって。それを考える必要がある。

 

数十年後の自分が振り返ってみたら、あんなことで七転八倒していたなぁ、と思えることが多いはずである。

今この時、今日明日にでも解決しないといけない、そういう焦りと不安が、悩み心を増幅させるものだし、今日明日に解決できないような問題なら、あるいは半年一年かかってもどうかわからないような問題で、ずっと悩み苦しみ続ける必要があるのだろうか。

打つべき手を十分に打ったら、やるべきことはやった、あとは前に進むのみ、たとえどのようなことがあろうとも、この魂が、生命が滅びることはない。

肉体生命は病み、苦しみ、そして死ぬことがあるかもしれないが、それは誰にも訪れる運命だとも言えるし、短い長いの差はあるかもしれないが、それもまた数千年のスパンで見たら、わずかの差に過ぎないし、あーだこーだ言うほどのことはない。

長い人生もあれば、短い人生もある。それでいいではないか。

 

ケ・セラ・セラ。なるようになるさ。なんとかなるさ。

 

これは以前、自分が深く悩んで七転八倒していた時にいただいたメッセージですが、悩みの最中では、そんなあっけらかんとした、なんとかなるさ、なんて気持ちにはなかなかなれないのは重々承知で、それでもなお、やはりこの考え方は大事だなぁ、と思うのでありました。

なぜなら、心の状態がどうあれ、客観状況はそう簡単に今日明日で変わるものではないでしょう。

だとしたら、その同じ状況において、ある人は悩みで七転八倒し続け、しかして別の人は同じ状態に置かれても、やるだけのことをやったら、なんとかなるさ、なるようになるさ、とある意味あっけらかんと達観した境地にある。

どちらが幸福だろうか、どちらが逆境に強く、それを逞しく乗り越えていける魂だろうか、といったら、やはり後者の方が逞しいように思えますよね。

それは何より気持ちの問題であり、気の持ちようの差であるし、なぜそうした心境の違いになるかといったら、やはり人生観の問題、達観していまの自分を見られるか、それとも、今という小さな視点のみに埋没して、そこから逃れられず、今視点のみで苦しんでいるか、の違いではないかとも思うわけです。視野の広さと狭さの差が、こうした人生観と心境の違いになって現れるのではないかなー、そんな風にも思います。

 

わたしたちは、自分の未来を知ることが出来ない。予想は出来るし、想像は出来るけれども、すべてその通りになるはずもなく、悲観的な傾向になると、自分の未来を灰色にしか思えないかもしれない。

過去は過去で、印象的な過去の事件ばかり覚えていて、数十年間に起きたすべてのことを覚えているわけでもない。限られた過去の記憶と、未来を悲観的だか楽観的だかの違いはあっても、多少の想像力でもって予想する力しかない。そうした限定された視野の中でしか生きていないからこそ、今この時、この瞬間、今日明日の自分の悩みや心境に囚われ過ぎて、その前後に広がる遥かなる時間を忘れている。

 

夢想にしか過ぎないように思われるかもしれないけれども、数十年後の、あの世に帰った自分から見たら、どうだろうか、と考えてみる。場合によっては、数百年後、数千年後の自分が見たらどう思うかを考えてみる。

歴史を見る目というのも似たようなところがあって、遥か昔に過ぎたことで、他人事だから、ある意味、達観してみることが出来ますよね。こういう視点は実に大事だと、わたしは思う。歴史から学べること。自分を見る目にも適用させる。

 

ふと、そんなことを思いつき、記事に書いてみたくなりました。以上。