引用紹介と、自分の感想と考察のバランス | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
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名著であっても、すでに世にあらわれて久しく、名前は知られているが、中身を全部きちんと読んでいる人は少ない、そういう本を紹介する時は、適宜、名文や名解説箇所を引用しつつ、そこに自分の感想なり考察を付随させて、記事にしていたりする。

これは、名著のススメ、あるいは、素晴らしい本の紹介として、自分が採っている方法だ。場合によっては、かなり大量に、本の中身を網羅的にとらえて、たくさんの引用文を載せつつ、そうして、その本を読むことの価値、意義を伝えられたら、と思っている。そういう気持ちで記事紹介をしている。

その場合でも、たくさんの引用文を載せれば載せるほど、自分の感想や考察も増えるので、必然的に、記事の数が複数になっていくし、場合によっては、二けたを超えて書く場合もある。シルバーバーチの霊訓の感想記事とかは、そんな風にして書いていったら、19記事だかになってしまった。いま、ブログの右端にある「人気記事」のいちばん上にある記事も、そうした記事のひとつだ。

 

これに対して、出たばかりの新刊だとか、まだこれから売れるぞ、売るぞ、というような本の場合は、あまりにも中身を沢山紹介してしまったら、これは本の購入のススメどころか、下手をしたら、その紹介を知ったから、実際に買って読む必要は無いや、などと思われてしまったら、逆効果のことを行なったことになってしまう。

映画が公開された直後に、あらすじを全部語ってしまうのと同じであって、それでは出し過ぎなわけだから、本の場合は、直接の引用はなるたけ控えて、さりげなく中身に触れるようなことに若干触れつつ、自分の感想などの方をメインにして、勧める、紹介する、ということに力を向けるべきなのかと、長年の経験で思う。

映画に例えたら、短いCMで、本編を見たいようにさせるとか、そういう紹介の仕方が必要なのかな、と。

 

内容を知るのに、対価を払うべきもの、購入して読んでほしい、といって出されたものは、やはり基本、自分で買って読むのが筋だと思うし、それをしたくないのなら、内容を知る権利や資格も失うのが当然だと、わたしは思う。

本屋での立ち読みは、その本を買うべきかのチェックのためには必要であっても、立ち読みで全部読んでしまおう、とか、興味のある箇所だけ立ち読みして、あとはいいや、というのは、やはり本読みとしては邪道に当たると思うし、本の価値によっては、この行為は「盗」にすら当たると、厳しく言えばそうなるかと思う。

神の世界から火を盗んで人間に与えた、と伝えられるプロメテウスの如く、自分ではいいことをしているつもりであっても、それをする資格があるのかどうか、ということを考えた場合に、やはり読みたいものがあったら、自分で資金を出して購入すべきだし、買って読むのが筋だろうし、これが基本形であるべきだ。

図書館で借りて読む、とか、友人知人に借りて読む、という行為もあるが、その場合には、タダで読めてラッキー、じゃなくて、これまた本の内容次第によっては、それだけの感謝をもって読めているか、という点を自分自身に問うくらいでないと、安易に過ぎて良くない傾向に陥っているのではないか、とわたしは思う。

自民党の政治家たちのなかには、自分では買わずに、誰かが購入した大川隆法先生の著作を、つぎつぎと回し読みして、そうして中身だけを拝借して、自分が思いついた政策の如くにして使った人が多数あるようだ。著者の名を引用することなく、その発言内容だけを拝借して、それを自分のアイデアの如く使用したのなら、これは事実上の「盗」そのものだろう。アイデアをもらったことへの感謝も無しに、発案者の名の紹介もしないで、中身だけをしかも無料で盗っているのだったら、これが盗みでなくて何であろう、とわたしは思う。

しかも政治家ならば、本の一冊や二冊、自分のお金で買えるだろうに、そのわずかの金さえケチって、しかして中身だけを拝借して、著者の名を出さない、紹介しないという点で、著者に対しての敬意が無い、上手いアイデアがあったらそれだけ匿名で自分に寄越せ、とでも言わんばかりのこうした読み方は、本を読む人間としては恥ずべき行為だと思う。

 

本を読むには、自分側の努力、著者への敬意、こうしたものがあってしかるべきだと、わたしは思う。無論、内容の良し悪しによってではあるが。

自分側の努力というのは、自分でお金を出して買って読む、ということでもあるし、図書館などで借りられるから、お金の出しようがないという場合であっても、著者や著作物への感謝の思い、敬意の気持ちは持てないことはないだろう、とも思う。ただで借りられる制度のもとで読んでいるのだからいいじゃないか、といって、ただ読むだけの読み方は、心の浅い人間の読み方であると、わたしは思う。

 

そうして、その本を紹介する場合、全部まるごと暗記して復唱できる人はいないだろう。全編読んだとしても、自分としては何を感じたか、どの部分に感銘を受けたか、そうしてどこが魅力的だと思ったか、というのは、人それぞれで違うはずだ。

全編丸ごと述べてもいいよ、と言われても、朗読でもするのでなければ、自分が読んだ自分なりの記憶、自分の語る表現、好む言葉づかい、などによって、その人なりの紹介文になるはずで、それこそはその人の個性というものだと思うものである。

だから、同じ本を読んでも、その本をどう紹介するかは、万人が読めば万の紹介の仕方があるはずだ。まったく同じ文章になるのだったら、それは複製しているだけのことで、その人の考えた内容ではない、ということになるし、そこには個性の発言がないのでダメなのである。

自分で読んだこと、感じたこと、思ったことを、自分の言葉に置き換えて語る。用語はそのまま使わせてもらっても、まったく同じ、オウムが言葉を繰り返すが如きの表現にはならないはずで、必ずや、その人なりの語り方、表現の仕方になるはずだ。

そういうことが出来る人ほど、自分なりに深く考えて、自分なりに消化して、そうして自分の言葉で語ることが出来るようになるものだと、そう思うものである。

各人が、自分の個性のままに学ぶ、というのは、そういうことではないかと思うのである。

同じ思想を学んでも、金太郎あめの飴のようにはならないものだ。個性を残しながらも、その同じものをどのように見るか、感じるか、というのには、違いが残るものなのである。