他の人から学ぶことの必要性 | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

自分に性格的な欠点・問題点があったとして、それは神さまの責任だろうか? 違うよねー。

もしそれを神さまの責任だと言うなら、自分を作ったのは神さまなんだから、自分にこんな問題があるのも大本の神さまの責任だと言うなら … 

そういう人は、好き勝手なことをして他人様に迷惑をかけて、そういう時にも自分の責任だと考えずに、こんな自分を生んだのは親なんだから、親の責任だろう、という人間と同じ思考パターンに陥っているだけのこと。

自分の責任だと考えずに、そのもとにさかのぼって、親のせいだとか、神さまのせいだと言う人間は、きわめて無責任で、自己中心なのであって、自分の責任を取らないで逃げようとする、そういう卑怯なる精神と、ワガママ勝手な自我我欲があるんだよねー。

 

などと、歩きながら思いつつ、

 

では、自分の性格の欠点や、考え方の間違いに関して、それが自分にとっても他の人にとっても、よくない影響を与えている場合、

これは、自分の守護霊や魂の兄弟にも、責任があるのではないか、という視点はどうなのだろうか? これはわたしは、魂の兄弟にも責任がある、と考えますけどね。運命共同体、一心同体の魂グループとして、その性格や思考癖を作ってきた責任は皆に共通して担われるべきである、とも考えますが、

その場合は、いま自分にある才能や長所、美点もまた、そうした魂の兄弟の恩恵をこうむっていることも同時に認識していなければ、不満ばかり有って感謝が無いという意味で、これまた自分勝手の間違った認識と言うべきでしょう。

 

魂の兄弟への感謝、自分に有る能力だとか良い部分、そうしたものは、過去世において魂の兄弟たち(自分も含めて)が頑張って、そうした能力や性格を身に付けるための努力をしてくれたお陰だから。

そのことが本当に心から理解できている人は、自分の性格的な欠点を、魂の兄弟や守護霊、さらには神さまのせいにして、不平不満を言ったりはしないでしょう。

神さまに対して感謝の出来ている人は同様にして、神さまに対して不平不満を言ったりはしないでしょう。

神さまのせいだ、と言って文句を言う人ほど、神さまへの感謝が欠如しているに違いない。しかしそれは、一方の不満点ばかり見て、不当な方に文句を言い、その反対に、感謝すべきことを全く感謝できていない、自己中心の身勝手そのものではないか。

 

そんな風に思いますけどね。

 

自分の考え方に間違いがある、性格的な欠点がある、他の人と不調和を起こすほどに、考え方が偏りすぎていたり、自己中心の気持ちが強すぎたりする場合は、これはやはり、あらためるべき欠点なのだと自覚して、それを積極的に改めるべく努力すべきでしょう。

たとえば、逃げ癖があって卑怯な性格だとする、言い訳ばかりして責任から逃れようとする、そういう弱弱しさが自分に有った場合に、その問題が何処にあるのかを自覚するのは難しいでしょう。わかっていたら、自分で治せるはずだし、治せないのは、治し方を知らないからで、それどころか治すべき欠点だという自覚も無いままに、開き直ってしまっているからかもしれません。

 

わたしが思うに、長所を魂の兄弟たちで共有しているように、短所も魂の兄弟が共有しているのだろうから、上のような欠点があった場合、魂の兄弟も一緒になって同じような傾向なので、なかなか治らない。自分たちだけで好きに生きてしまったら、治る可能性が低い、ということなんだと思うんですよね。

 

魂の兄弟の中に独りだけ、非常に決断力があって迷わない、潔い性格で何でも自分の責任だとして堂々として受け止める、逃げることを潔しとしない、自分の問題だとして正面から積極果敢にぶちあたってゆける、そうした逞しい兄弟が居る、という可能性は低いのじゃあないかと思います。そんなに極端に、正反対の性格を持っている可能性って、そんなには無いのではあるまいか。ふつうの魂グループの場合。

 

みながみな、臆病であったり、弱い性格ですぐに逃げてしまう、優柔不断で日和見をしたり、といった魂傾向があった場合、だからこれを修正するには、そうした欠点をすでに克服した、上記にあげたような特徴を持った、別の魂グループとの関係を持つことが大事、そうした他の魂グループから学ぶこと、謙虚な気持ちになって学ぶことが大事、というのは、そういう意味も含んでいるのではないかと思うわけです。

 

経験からして自分のことを考えてみればわかるかと思いますが、自分の苦手なこと、苦手な課題、苦手な問題への対処、というのは、どうしたって苦手なものは苦手でしょう。

それが苦手なのは、能力的な理由もあるし、考え方に間違いがあるから苦手意識が強くなってしまっているとか、いろいろ有るだろうけれども、魂の兄弟も一緒になって、うーん、この問題は自分たちも苦手なんだよなー、と言っていたら、そう簡単に修正できるはずもないですからね。

だからそういう場合は、地上で出会うことの出来る、自分とは違う精神傾向を持った他者、違う考え方を持った他人、そうした中で、学ぶべき優れた性格、考え方を持った人から、謙虚な気持ちで学ぶ、場合によっては教えを乞うてでも学ぶことが大事、という状況が、だから地上人生では与えられている、ということではないかと思うわけです。

 

それが、自己中心で、自分の自我欲求ばかりを大事にして、他の人のことを見下したり、顧みないような性格になってしまうと、一切、他者から学ぶことなく、自分の魂傾向にのみのめり込んで、これを暴走させてしまう。欠点を修正することなく、長所のみ伸ばすことに夢中になって、自分に自惚れる傍らで、欠点を欠点であると自覚することもなく、そこを改めることもなく身勝手に生きてしまえば、その魂はどんどん極端でいびつな精神傾向になってしまう、そういう危険性がありますね。

他の人との協調のなかで、他者から学ぶ、それによって、自己の魂のバランスを修正する、極端にひずんでいるところがあればこれを正し、という学びをしなくなるので、そうなってしまうのでしょう。

独りよがりに生きること、他者との調和を欠いた人生が最終的に破綻するのは、そうしたエゴの増長に偏ってゆくがゆえ、ということかと思います。

 

他の人と対等の立場で、相手を尊重して、評価して、そうして学ぶべきことは学ぶ。そうした姿勢を持つとき、相手の人もまた、自分から学ぶことが何かあるかもしれない。

相互に、相手の善きところを学び合いながら、欠点とおぼしきは、相手の善きところから学び、互いに長所を磨き合い、欠点を修正しながら、人生をともに歩んでゆく。

そういう基本姿勢が大事なのではないかと、そんな風に思うわけです。