肉体の不自由と、魂の煌めきと | LEO幸福人生のすすめ

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ジャンヌ・ダルクが虜囚の状態になった時、天使たちは「もうすぐお前は解放される」と何度か通信を送っている。

ふつうに聴けば、これは虜囚の身からの解放、誰か救いのための部隊が送られてきて救出してもらえる、と考えるだろうけれど、実際はそういう意味ではなかった。

ジャンヌは処刑されることによって、肉体という牢獄から解放され、魂が自由となって天に帰られた。そういう意味での「解放」であったのだ。

 

肉体に宿るということが、魂にとっては牢獄に入れられるようなものであり、それは魂本来の自由な状態からは程遠い状態なのだという。ソクラテスは何度もそのようなことを語っている。

肉体に宿った人生は、仮の宿りの人生であり、人間の本性は肉体生活にあるのではなくて、霊的自由にこそあるのであって、あの世での生活こそが本当であって、こっち(この世)での束の間の人生は、肉体という不自由な身体に宿った特殊な人生なのだという。

しかして、その不自由な肉体に宿ることにも意味があり、意味があるからこそ、わたしたちは何度もこの世に生まれ変わってきては、その肉体に宿って人生修行を行なっている。

 

 

肉体の不自由。

病気になってみると、健康な状態がどれほど有難いことだったのか、それは決して当たり前の状態ではなくて、むしろ五体満足で何の病気もない健全な状態の方がめずらしい、奇跡とも言うべき状態なのではないかと、ふと思う。

肉体の働きを知れば知るほどに、よくぞここまで精妙なシステムが、何十年もきちんと働いてくれるものだと感じ入る。

しかしその肉体は、ちょっとしたことで故障をするものだし、病気になって不具合な部分が出来たり、大怪我をしてそれ以降は完全治癒することなく、肉体が不自由なままで人生をおくらざるを得ない人もいる。

日本人の平均寿命は男女ともに相当な長寿となって、しかして健康はその寿命が尽きる以前に、もはや満足な状態で機能することが難しくなって、歩くこともままならなくなったり、内臓にもさまざまな病を抱えて苦しんだりして、いまの長寿を生きる人たちは、肉体的にはつらい晩年をおくっている人も多いのだろう。

そうした姿を見るにつけ、肉体が五体満足で健康でバリバリ動けるのは、若いあいだのみの奇跡のようにも思えるし、肉体というものがいかにもろく壊れやすいものか、それが仮の宿りの場でしかないことの証明のようにも、あらためて感じさせられる。

 

なぜ、そんな苦しい状態になってまで、長寿を生きねばならないのだろう。

健康生活がおくれなくなった時点で、もう自分は帰天したいと思っても、そう本人の都合よく寿命が終わってはくれないので、いろいろと悩ましい後半生を生きざるを得なかったりもするものだ。

最晩年は、自分で自由に動くことも出来ずに、食事の介助から下の世話、入浴も自力ではままならない、そんな境涯の人が今ほど多い時代は、そうそうなかったのではないか、とも思う。

こうした、人の世話を受けないと生きていけない、という体験をすることも、その反対に、そうした人のお世話をすることにも、大切なる学びの意義があるので、神の摂理、神仕組みの深さというのは、実に計り知れないものだと思う。

 

 

ブライアン・ワイス博士の著書で、博士がエリザベス・キューブラー・ロス女史に直接聴いた話というのを読んで、深く考えさせられた覚えがある。

 

 

 

エリザベスは体重不足の三つ子の一人として生まれました。医者は彼女の母に、少なくとも三つ子のうちの二人は助からないだろうと告げました。しかし、エリザベスの母は類まれな強さと勇気を持つ女性でした。また、他の人々に何もかも自由に与えながら、それに対するお礼は一切拒否するという、誇り高く自信に満ちた女性でもありました。彼女は三人とも助けるのだと誓いました。そして約一年間、体を暖めるために、ずっと自分と一緒に三人をベッドに寝かせておきました。まさに今日の新生児保育器そのものです。こうして三人とも生き延びて、成長したのでした。

 

やがてエリザベスは大学の精神科の教授になる。その時に、実家の母に会いに行った際に、母から奇妙なお願いをされたのだという。

 

「エリザベス、もし、私が植物状態になったら、その惨めな状態から抜け出すために何か頂戴ね」と彼女は言いました。

 

 

母親は何かの運命の予感を感じていたのでしょうか。

 

この訪問から一カ月ほどたって、エリザベスの母は重い脳溢血になり、体の大部分を動かせなくなりました。頭の働きは比較的しっかりしていましたが、誇り高く独立心に富んだこの女性は、最も基本的な事柄さえ、他の人々に頼らざるを得なくなったのでした。

 

 

彼女の母は四年後に、身体の自由を取り戻すことなく、亡くなりました。エリザベスは神を恨みました。

 

 

愛する母。しかもその母は子供を産み育てるために、献身的に命をささげ、それだけでなく、生涯において多くの人たちのために献身的に生きた人であったのです。

その母がなぜ、最期の最期にこんな運命に見舞われねばならなかったのか。

神さま、どうしてですか? なぜ、こんなひどい最期を、母は生きねばならなかったのですか。

納得できないエリザベスの疑問と怒り、そして恨みの心。

 

同じような体験をしたら、十人が十人とも、エリザベス女史と同じような気持ちになるのではないでしょうか。

理解できない。まっとうに、愛に生きた人が、自分の身体を自由に動かすことも出来ない状態となって、そうして命を失ってゆく、という悲しい最後。

 

ここにはいったい、どのような理由があるのだろうか。

肉体生命というのは、やはりそのように脆くはかないものであって、仕方がないことなのだろうか。心の善性とは無関係に、年齢を重ねすぎると誰もが、この母のように壊れてしまい、不自由な肉体の最期を体験しなくてはならないのか。

 

エリザベスはこの答えを、瞑想のさなかに聞かせてもらえるんですよね。

 

彼女の母が亡くなってまもないある日、エリザベスは瞑想中に、強力な内なる声、またはメッセージを投げかけられました。 

「なぜ、お前はそんなに私を恨んでいるのですか?」とその声はたずねました。  

心の中でエリザベスは答えました。 

「あなたが私の母を、あんなに苦しめたからです。あんなにもすばらしい親切な人、自分自身のためには何も受け取らず、すべてを他の人にあげていた人をです。母が亡くなるまで、あなたは四年間も彼女を苦しませたのです!」

 

神、あるいは天使への、エリザベスの詰問調の激しい問いかけ!

それに対する答えが、霊天上界から伝わってくるんですね。

 

「あれはあなたのお母さんへの贈り物だったのですよ」とその声はやさしく答えました。「神の贈り物だったのです。愛はバランスされなければいけません。もし、誰も愛を受け取ろうとしなかったら、誰が愛をあげられますか? あなたのお母さんは、このことをたった四年間で学んだのです。それでなければ、彼女はまだ何回か、重い知的障害者や身体障害者のように、どうしても他の人の愛を受け取らざるを得ない立場の人生を送るために、戻って来なければならなかったでしょう。彼女は今学び終えて、もっと先に進むことができるようになったのです」  

これを聞き、そのメッセージを理解して、エリザベスは怒りを捨てました。理解することによって、どんなにつらい痛みも癒すことができるのです。

 

他の人のために献身的に生きた母。

 

しかしその母自身も、逆の立場で、献身的に支えてもらう、という人生体験を最後にしたのだ、という説明。
与えるだけでなく、与えられることも体験することで、与え合う世界の真実を、その魂はより深く悟れるのだ、ということでしょうか。
 
ヘレン・ケラーは、五体満足の身体で生まれたのだけれど、わずか1歳半までしか、その健康状態での人生は許されず、高熱を発した後に残った後遺症として、三重苦を背負って、その後の人生を生きたのでした。
肉体舟は、魂が宿る仮の宿りにすぎない。大切なのは、そこに宿った魂の輝き。
たとえ肉体は不自由であろうと、病の中にあって苦しい状態であろうとも、魂の煌めきと輝きは、発することが出来る。
ヘレン・ケラーの生涯は、この真理を語ってあまりある、光り輝く人生だったと誰もが褒めたたえずにはいられないでしょう。
 
肉体が不自由であっても、魂は健全。
それは、さまざまな病を抱えて、肉体的には不自由となってしまったお年寄りたちを見ていても感じさせられるし、知的な障害を持った子どもであっても、その限られた条件の肉体の中にあって、一生懸命に生きている姿を、わたしたちは眼にすることが出来ます。
自分自身、いまは健康で五体満足であったとしても、人生の最後にどのような状態であるのか、定かではありませんからね。
わたしたちは、自分の健康に慢心して胡坐をかいて生きるのではなく、健康な肉体に宿って生きられることがどれほどの幸福であるかをよくよく理解し、それが失われたとしても、魂の煌めきは失ってはいけない。
そうした理解をもって、この地上人生を生きてゆく使命があるのだと、そう思うのでありました。