後書きや後解説を読むのが楽しい ~イワンの馬鹿~ | LEO幸福人生のすすめ

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2020年9月のライブドアブログ記事の再掲。アメブロには転載してなかった記事。

 

 

 

むかしから、本を読んだら、本の最後に載っている、著者や翻訳者による解説を読むのが楽しみだった。いまでも解説を読むのは楽しい。そこから新たに知ることも多いから。

 

 


トルストイの「イワンの馬鹿」、電子書籍限定のグーテンベルク21出版のバージョンですが、この後解説には、こんな文章が載っています。
 

これには作者が拠り所とした一定の原典はない。ただ、一般に流布していた、イワンの馬鹿とその 狡い兄たちに関する民話を利用したにすぎない。  
これほどロシア的で同時に世界的で、それでいてトルストイ的な民話はない。昔からロシアの民衆は 賢しらな世間知を軽蔑し、愚かなくらい純真で従順であることを尊ぶ。この作品にはそうしたロシア的な考え方が遺憾なく表現されている。



「イワンの馬鹿」、トルストイ翻案による、このロシア民話、読んだことがあるでしょうか。
大川咲也加さんも、トルストイの作品で初めて読んだのは、この「イワンの馬鹿」でした、と述べていたと思いますが、

イワンは四人兄弟(男3人、女1人)のきょうだいの、三男坊で、上の兄貴二人が欲深くて自分勝手なのに対して、イワンは素朴で純朴で、傍から見たらバカと言われるくらいのお人好しの人物として描かれています。
この男兄弟たちを、悪魔がそそのかして堕落させようとするわけですが、上の兄ふたりは、権力欲や金銭欲のところを唆されたら、あっさりと悪魔の術中に陥ってやられてしまうわけですが、そうした欲がまるで無いイワンには、悪魔の誘惑は効かない、という展開ですね。
悪魔の狡猾な罠に対して、別に悪魔を上回る知性でもって対峙して、これを見抜いて打ち破る、というのではなしに、そこまでの智慧は無くとも、素朴で純朴で真面目に生きるその姿勢自体が、悪魔の誘惑とは噛み合わないわけです。
狡猾な悪魔に勝つためには、天才的な智謀が必要となったら、これは悪魔に勝てる人は殆どいなくなるかもしれないけれど、素朴さ、正直さ、欲の無さ、感謝の気持ち、などでこれを弾けるのなら、悪魔の誘惑になど乗らずに済む、それこそ多くの民衆みながこれが出来る、ということになるでしょう。

人間としての、基本的に大切な心の在り方、それが「イワンの馬鹿」という民話に、簡潔にして象徴的な寓意を込めて、物語られている。このお話を読む意義は大きいし、そこから学べることはより深い、と言うべきでしょう。

トルストイは、ロシアに伝わる民話を、自分なりにアレンジして、トルストイ版「イワンの馬鹿」を書いたけれど、なぜこれを晩年に書いたのかといったら、後書きに次のように書いてあります。

 

「早春のある日、わたしは森のなかにひとりでいて、その音に耳をすましていた。わたしはここ三年間の自分の苦悩や神の探求や喜びから絶望への絶え間ない急激な移行について考えていた……そしてふと自分が神を信じているとき以外は生きていないことに気づいた。神のことを思うだけで、生きる喜びの波が身内に湧き起こった。あたりの一切が生気をおび、一切が意味を与えられた。ところが神を信じなくなると、とたんに生命は停止した。それなのに、自分はまだ何をさがしているのかと、わたしのなかの一つの声が叫んだ。では、『彼』なのだ、それなしには人が生きてゆかれないものとは! 神を知ることと生きることとはおなじことなのだ……それ以来その光はわたしから去らなかった」



トルストイ自身が語る、回心のときの心境の変化、悟り得た心境が、引用されています。
こうした宗教的回心があって後の「イワンの馬鹿」の創作。
ここには、神と共に歩む人生、それこそが真の生なのだ、というトルストイの悟りと、それに対比しての、この世的なる名誉、金銭、権力といったもの、これを悪魔の誘惑として描いている、ということなのでしょう。
素朴で、純朴で、正直で、真面目で、無欲に生きる、といった基本こそが大事なのだ、ということがテーマとして語られているのかと、そう思いますよね。


トルストイは回心後に著した芸術論において、次のように述べています。解説者による説明ですけれど、

 

一八九七~九八年に発表された『芸術論』から 窺うことができる。その中で著者は、従来の芸術作品の多くは上流社会のために作られていて、性欲や倦怠をテーマとする有害無益なものであると断じ、真の価値ある芸術は、大衆にもわかる、宗教的感情やだれにも共通な感情を伝えるまじめで純粋なものでなければならぬと説いている。そして、まことの芸術は人生になんらかの益をもたらし、人間を浄め、暴力を除去して、人間同士を結びあわせ、あらゆる階級、あらゆる国の人々を結合させるものでなければならず、人間の同胞愛、宗教的意識で人間を共通の幸福へ導くものでなければならない、そして「芸術の使命は神の国つまり愛の国を来らしめることにある」と言う。


芸術の使命は、神の国、愛の国を、来たらしめることにある、とあります。トルストイ自身の表現、その引用ですが、

あくまでも、使命としては、こうした崇高なる頂点を目指しての、芸術創作であるべきである、というトルストイの訴えであり、
ここまで到達していなければ価値が無い、とまでは言わずとも、ここを目指さないでいる、単なる人間心による好き勝手な表現でもって、それを芸術と呼ぶことは出来ないし、呼びたくもない、ということなのだと、わたしは思うのでありました。

大いなる理想としての、真の芸術論。ここまで到達するのは至難の業、遥かなる境地の悟りを要するのでしょうが、山の頂き、描くべき理想像とは何であるのか。それを知っておくことはやはり大切であるし、芸術に親しむ一読者である我々にとっても、この観点は大切なものだと思うのでありました。

そうした視点が無いで、単に気が向くままにあちこち読み漁っているだけでは、いつしか迷い道に入ってしまい、イワンの馬鹿、のような純朴さ、素朴さ、正直さ、無欲さを忘れ果てた、上のお兄さんたちのような、悪魔好みの価値観(芸術観)に毒されてしまっている、なんてことにもなりかねませんからね。