自己中は、自分を幸福には出来ないというパラドックス | LEO幸福人生のすすめ

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世の中には、よくもそこまで自己中な言動が出来るものだ、という驚くほどの自己中がいる。

そういう人は、自分だけが大切で、自分が誰よりも大事であるから、損得勘定で動くことが多いだろう。自分に得があれば動くけれども、損だとなると途端に身を引く。自分自身にとっての利害損得勘定ばかりが優先してしまっている。

自分を守ることに汲々としているので、自己弁護のための嘘を平気で言うこともあるし、事実が自分にとって都合が悪いと、適度に虚構を交えたり、自分に都合のいい解釈を織り交ぜたりして、事実を曲解して、自己の立場を守ろうとしたりもする。

 

そういう自己愛ゆえの狡猾な知性というのは、真の意味での賢さではなくて、むしろ最終的には自分をドンドン貶めることになるのに、その因果を見抜けぬ当人は、自分のことを賢い人間だと思っているかもしれない。

打算的な人間、すぐに損得を計算して、自分にとってメリットがあるのか、それともデメリットがあるかばかり考えるタイプというのは、典型的な自己中特徴が出てしまっているのではないかと思う。

 

自分を中心にばかり考える傾向性は、その必然の結果として、他者に対する興味が弱い、失せてしまう、といったマイナス方向へ同時に向かってゆく。

エゴが増せば増すほど、他者への愛や共感能力は失われてゆくだろうと思われる。

他者への共感性や愛が足りない、関心が薄いというのは、自分にばかり関心が強いエゴの心の裏返しではないかと思う。

 

己を空しくして謙虚に生きている人は、他の人に対して心を開いていて、寛容な気持ちで接する度量もあるから、自然、他の人への関心も優ってきて、それが共感能力の豊かさや、愛の感情の豊富さとなって、自身の魂の豊かさへとつながってゆくのではないか。

 

エゴイスティックに生きている人は、他者への関心を失うほどに孤立化し、独りよがりの世界に迷い込んで、その思考世界はますます偏向して、歪んだ偏屈思考になってしまたりするものだ。その語る言葉にはエゴの心がプンプンと漂っているし、その行動は、他の多くの人たちから白い目で見られるような、そうした煙たがられるような人間へと堕して行ってしまう。

当人ばかりは、自分は自己を守るために、非常に賢い生き方をしていると勘違いをしているものだが、実際は、それは賢さとは正反対の、自身の魂を滅ぼす方向への生き方になってしまっているに違いない。

 

豊かな人間関係を得られず、人間関係から生まれる幸福から遠ざかる生き方は、それ自体が間違いであることの証拠を示してるのだと、気付かないといけないのだと思う。

人間は、他の人との関わりの中でこそ、もっとも幸福感を味わえるものであるし、人間関係における愛を欠いた人生に、心からの幸福は生まれないだろうと思う。

自分は神を信じているから孤独でもいいのだ、といくら強がったとしても、その生き方は、神を信じてはいるが、他の人への愛が欠けている人生ということになってしまうし、愛無くしての信仰などがあるのかといったら、これは自己を誤魔化し正当化するための、自己弁護のエセ信仰状態に過ぎないのかもしれない。

 

神を信じることが、他の人への愛につながるような生き方をしてこその、信仰と愛なのであるはずだし、だから自己中心のエゴイズム、利己心、自分さえ良ければいい、自分を守ることが第一で、他の人のことは二の次三の次、などという生き方であってはいけないのではないかと思う。

 

エゴイストは、他の人への共感能力を欠き、それゆえ他の人の心情というものを、共感的に理解することが出来ない。同情心も欠落しているし、だから本当の意味で、親身になって相手のことを考えてあげる、だとか、そういう気持ちが欠けている。気持ちが欠けているので、理解する力も欠落することになる。

悩み苦しんでいる人の相談を受けて、その人の悩みを親身に受け止めてあげて、そうしてその人の身になって考えられて、どのようなアドバイスが出来るかを考え、それを指し示すことの出来る人こそは、愛もあって、その愛ゆえの知を兼ね備えた人であるのだと、わたしは思う。

もし愛が無く、共感的な理解もないままに、外から他人事のように分析して、他人事アドバイスをするだけであったら、そのアドバイスは決してその相手を、心から癒して感銘を与えることはないだろう。

 

他の人からの信頼関係、頼られて相談を求められる、あるいはその人の言葉を聞きたいといって、他の人から慕われる人こそは、目指すべき精神的リーダーの姿であるのだと、わたしは思う。

誰からも求められないとしたならば、それはまだ自分自身に、愛が足りず、知も足りないからではないか。

愛深くして、その愛ゆえの知を豊かに持っている人間となれたなら、必ずやその人は、他の人をよく理解し、そうして他の人たちからも多くの信頼を得て、頼られ、相談を持ち掛けられたり、深く信頼され期待される人間としての、評価を受けることになるだろうと、わたしは思う。

 

本当の意味での、人柄の良さ、人格の豊かさ、品性の良さ、人望・人徳、そういったものは、その人の心の中の、信仰心、それから愛の心、そして愛ゆえの知の深さ、 … などなど、から生まれてくるものであろう。

幸福の科学で教わる、幸福の原理そのものが、正しく生きているかどうかのチェックポイントとなること、あるいはその答えであることが、学べば学ぶほどにわかってくるのだろう。今のわたしはそう思っている。