悪霊や悪魔について、その特徴 | LEO幸福人生のすすめ

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常に霊視や霊聴などの霊的現象を察知できる人でもなければ、

身近にちょくちょく悪霊が来て自分を惑わしているかどうか、あるいは、悪霊や悪魔に完全憑依されて同通してしまっているか、そうした霊的実態には無頓着に、自分はふつうに生きているだけ、と勘違いしているかもしれない。

 

こうした憑依を避けるためには、真理を知っていること、それも知識的にだけではダメであって、道徳的・宗教的な意味でも、自己の精神をしっかりと律することが出来ている必要がある。

貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六大煩悩と言われるけれども、これらの煩悩にまみれていたら、基本それ系統の地獄霊に同通するのは避けられないし、悟りたる者を目指すということは、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の反対の心を持てるように、心を修養していかないといけない。

 

 

貪欲の反対を行っている、そうした心とは、いったい如何なる心の状態か、即答できるでしょうか。

瞋(じん)、カッと来るような怒りの反対の心とは? 愚かと対極にある心とは?

慢・疑・悪見に対応する、それぞれ真逆とも言うべき、正しき心の状態とは?

 

これに即答できれば、その人は日夜、そうした心の大切さと、もう一方の危険性をよく知って、みずからを戒めていると言えるけれども、即答が出来ないようなら、たとえ知識で一度は聴いたりしていても、あまり日頃、具体的に考えて生きるところまでは行っていないのではあるまいか? 自分に甘く、まだまだ真理を修めるところまでは行っていない、そうした甘さの中にあるかもしれませんね。

 

わがままに生きている。傲慢である。エゴイスティックな人間である。利己主義である。こうした自分中心の性格が顕著であって、他の人のために献身的に生きたり、優しく生きることが欠けている人は、天国は程遠く、地獄に近い生き方と言うしかないし、これは悪霊に憑依される典型的な特徴ではないか、と思いますしね。

 

それが単なる悪霊ではなくて、もっと凶悪な、悪魔レベルの存在に操られる人というのは、どういう性格特徴や信条を持っているかといったら、

無神論や唯物論を標榜して、真理とは真逆のことを主張したり、正しい宗教を批判したり、仏敵のような行動をしているタイプ。

そうして、自身には信仰心が無い分際で、信仰心ある他人の心を揺さぶる、惑わす言をふりまく、こういう行動に走るようになると、これはもはや単なる悪霊ではなくて、悪魔の手下として使われる状態に近い、ということになるようです。

信仰心が無い、不信感が強い、疑い、疑の心が強い、自分自身がそうであるから、信仰ある者をも自分の方へ引き込もうとして、信仰心ある者の信を揺さぶる、これを否定にかかる、そんなものは怪しいぞと言ってくる。

まさに悪魔の心そのものと言うしかないし、こういう所業に日夜勤しむようになるようでは、すでに悪魔の手先として操られている状態だ、と言っても過言ではないと、わたしは洞察しますね。

悪魔の手先と化すと、それは顔つきにも現れるそうだし、他人を猜疑心でしか見れなくなったり、嫉妬心ややっかみが増えて、他の人を心から祝福など全くできなくなるにちがいありませんね。素晴らしい心の持ち主の、正反対の心の状態になってしまう。

悪口ばかりを言い、口から出るのは、疑心暗鬼の言葉や、不平不満の言葉ばかり。

マイナスの思いと言葉ばかりになってゆくのが、悪霊・悪魔に同通している心の、典型的な特徴ではないかと思います。

信仰を失うと、奈落の底にまで転落してゆく、ということが、よくわかります。

 

 『宗教選択の時代』 に収録されている複数の御法話を読みつつ、上のようなことをあらためて昨日、学ばせてもらいました。

すでに説かれた法や教えを、時に振り返り、自身の学びを再確認すること。

言葉だけの拝聴と、なんとなくのうろ覚えで終わらせることなく、自身の心の有りようを、再チェックすること。他の人の心のありようと特徴に、霊的な視点からの観察を加えて、他者の生き方からも学び得る、ということ。反面教師としての学びもあるので、すべての人から、わたしたちは何かしらの学びを、かならず得ることが出来るのだ、ということ。