転生輪廻と進化論 | LEO幸福人生のすすめ

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ルドルフ・シュタイナーが面白いことを述べている。

 

生まれ変わりを信じる人が、同時に、ダーウィンの進化論をも信じていたら、どうなるか?

自分のはるか昔の前世は、猿だった。遥かなる古代の過去世においては、自分は猿の肉体に宿って、猿として生きていた、そういう魂存在であった。

そういったおかしな考えに陥ってしまうであろうと、そう言っている。この人は、転生輪廻の思想も正しく理解できていないし、進化論も理解できない、という顛末に陥るであろう。そうも言っている。

 

幸福の科学ではふつう、一般的な生まれ変わりの周期は、300年くらいだと教わっている。

2000年という期間において、たいていの人は、5回くらいは生まれ変わっている、とも言われている。

2000年で5回ならば、2万年では50回であろう、単純計算で考えれば、そうなる。

そうすると、20万年では500回の生まれ変わりが可能になるけれども、500回の人生を生きたら、猿並みの知能の魂が、高度な思考をする人間にまで進化できるかといったら、それは無理だろうな、と私だったら考える。

 

1回の人生で、人はどれほどの進化を遂げられるのであろう。魂の進化を為せるのであろう。

自分の数十年の人生を振り返っても、知識的な勉強を自分なりに相当してきたつもりであっても、その多くは記憶の彼方に忘却されてしまう。

自分の人生観や、ものの考え方、生き方そのものを決定づけるような要素、魂の核の部分は、そうそう変わるものではない、とすら考える。

1回の人生で経験できること、学べること、魂のレベルを劇的に変える、根本的に革新するほどの大いなる学びがどれだけ得られるだろうか。

過去世リーディングや、転生の物語をいろいろと聴いてみても、5回や6回の転生をしても、ふつうの人は、根本的な生き方・考え方のところはあまり変わっていないように思える。

その人の基本人格、魂の傾向性、穏やかな人であるか、他の人に優しい人格であるか、あるいはそうではなく、戦闘的・攻撃的であるか、威圧的な人格か、自分勝手な性格か、それとも遠慮深い性格か、といった特徴は、基本的にはそんなに変わらずに、同じ方向性の性格が連続しているのが普通ではないか。

5回の人生で学べること、進化できるレベルというのは、そんな飛躍的な大きなものではなくて、魂の進化というのは本当に、少しづつ、わずかづつ成長して、着実な歩みの中で、上の次元に上がって行けるかどうか、というものなのではないかと思う。

 

5回や6回の転生でその程度なら、それが50回や60回になっても(2万年の転生)、猿が人間知性を得るに至る、というほどの飛躍的な進化はしそうもない、と私には思えるし、それが20万年スパンに相当する、500回や600回の転生であったとしても、猿が人間に変わるほどの精神レベルの進化は望めない、と私は思う。

 

ふつうの進化論は、単に肉体上の変質をのみ言っていて、50万年や200万年も経てば、猿の肉体が、人間のような肉体に進化して、それにともなって、その脳味噌が生み出すところの思考レベルも人間レベルに上がってきたのだろう、という程度の、唯物論的な意味での進化説に過ぎないのだろう。

しかし、本当の進化というのは、霊的な進化、魂の進化であって、肉体や外見の変化というのは二義的なものに過ぎず、しかも常時行われていることですらないのではないか、と私は考える。

以前の記事で書いたが如く、今西錦司博士の進化論のように、生命はふだんは現状維持を好むのであって、だから年がら年中、常時変化しているものではないはずだ。

ふだんはその種をそのままで存続することこそが種の維持なので、しかるにしょっちゅう突然変異による変態を行なっていては、種の安定などはどこにも望めなくなってしまう。すべての種が絶えず変化の真っ最中では、種の保存もくそもないことになるであろう。

 

だから、肉体方面での劇的な変化、種が別の種に変化する時というのは、それはある日ある時、まるで奇跡のように同時に起きるのでなくてはならないのであって、それがなぜ起きるのかといったら、神の息吹によって、天上界から降りた光の理念の影響によってそれが起きる、ということなのではないかと、いまのわたしは考えているものだ。

進化とは、神の理念による霊的変化、霊的進化の理念が降りてきて、それに応じる形で、この地上世界の肉体生命の、その肉体の形が変化する、という順番で起きるものではないのかと思う。

だから、神から変化すべしという理念が降りていない、通常の時期においては、猿は猿のままだし、馬は馬であり、犬や猫は犬や猫のままなのではないだろうか。そう、考えるものである。

現在進行形で、虎や豹が猫に変化している途中の姿を取っているものは何処にもいなさそうだし、キリンがキリンでないものから変化する途中であったり、その反対に、キリンでない別の新種に変化途中の謎の生物がアフリカの何処かにいるとも思えない。

そんなに変わるものではない、という方が基本形であって、魂の変化、精神の成長というのは、20万年や200万年という一見それなりの長い期間が過ぎたら、いつのまにやらものすごい高度なものに進化してゆくだろう、などと考えること自体が、むしろ妄想レベルのでっちあげなのではないかと思う。

何百万年という歳月が経てば、わずか1年や2年では変化しないとしても、その途方も無い歳月のあいだには、どんなことでも起こり得るであろう、という仮定こそは、なんの根拠も無い妄想レベルの思考の誤謬ではあるまいか。