この世の人生は、旅先での出逢いや体験のようなもの、旅が終われば旅人は我が家へ帰るのだ | LEO幸福人生のすすめ

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親しくしていたお婆さんが、先日亡くなった。

 

親しくしていたので、そのお婆さんともう会えないことは、とても悲しい。

 

悲しいけれども、わたしはこの世からあの世へ魂が移行する意味を知っているので、

お婆さんは、今世の使命と目的を終えて、あの世へ帰る時が来たのだなと、素直に思うことが出来る。

 

この世ヘは、旅に来ているようなものであって、

わずか数十年の旅を経験したあとでは、人は自分が本来住まう、あの世の自分のいるべきところへと帰ってゆくのだ。

あの世が本来の、その人の自宅であって、この世というのは、旅先に過ぎないのだ。

ただその旅が、数十年という長きにわたる長旅であるために、旅先自体が自分の自宅であるかのように、人は勘違いしてしまうのだ。

 

旅がいかほど長く感じられようと、それはあくまでも旅先での経験に過ぎず、旅すべき時間が過ぎたら、人は「死」という関門を通って、ふたたびあの世へと帰ってゆく。

そうして、あの世に戻って、魂だけの生活へと移行してゆくものなのだ。

 

 

自分自身、今世、この地上に肉体を持って生まれてきて、

そういう、あの世とのこの世の関係をふたたび理解したのは、何歳の頃のことだったか、定かではないけれども、

まわりの大人たちが言うように、人は死んだら終り、なんにも無くなってしまう、という説明には、断じて納得することが出来なかったのを、いまでもよく覚えている。その時の納得いかなかった気持ちを今でも覚えている。

 

自分は死なない、自分が消えて無くなるなんて有り得ない、意味不明と思っていたものだが、

その、自分が無くならないという、その無くならない自分というのは、肉体生命の自分のことではなく、魂のことだったのだと、今になってみると、よく理解することが出来る。

大人たちが言う、人は死んだら終り、なんにも残らず無くなってしまう、消えてしまうというのは、肉体のことであって、魂の話ではなかったのだ。

わたしが、自分は無くならないと思っていたのは、魂のことであって、肉体が無くならないと思っていたわけではないのである。

この認識のズレが、幼い頃にはわからなかったのだけれども、肉体は滅びるが、魂は永遠の生命を持つ、ということを知ってみれば、双方が言っていることには、別に矛盾は無かった、ということになるのである。

 

今世、この世に肉体を持って生まれてきて、生きているあいだに出逢った人たち。

年齢がかなり上だった人だけでなく、わずか数歳上の年齢の人たちでさえ、病にかかって命を終えて、いくつかの別れを経験した。

そういう死による別れを経験するたびに、ああ、死というのは、この世における別れであって確かに悲しいけれども、

その悲しみは、今世はもう会えないのだ、という悲しみに過ぎなくて、あの世ではまた再会できるのだということを知っていれば、その悲しみは絶望的な悲しみにまではならない。

この世がすべてであって、この世の肉体生命が終わってしまうことが、永久の別れだと思う人ほど、愛する人との死別の蔡に、絶望的な悲しみを感じることだろう。

自分自身が年老いてゆき、同学年のクラスメートたちが次々と亡くなってゆくのを見ると、死後の世界を知らない人ほど、次は自分の番かと戦々恐々とし、残りわずかとなった肉体生命の時間に執着するものだろう。

あの世に帰るだけだと知っている者はそうならずに、心穏やかにして、淡々として残りの生を生きることが出来るであろうことと比べて、実に対照的な晩年を迎えることになるのだ。

 

この世という旅先で、私たちは多くの人たちとめぐり合う。

ともに人生を生きる、魂の仲間たちとめぐり合い、しばしの時を一緒に生きることがある。

しかしそれは、旅先で旧友に出逢って共に生きている、ということなのであって、旅の時間が終わったら、終わった人から先に、元来た世界へ帰っていってしまう。

旅先での出会いと、お別れに過ぎないのだということが、さまざまな人との別れを積み重ねる毎に、いよいよ実感として、この頃はよく感じられるようになった。

まだ老境というところまでの年代になっているわけではないけれどもね。

 

年齢というのは、今世の旅を始めたのは、今から何十年前のことであるのか、だいぶ早くからこの旅に出てきた者であるのか、それともつい最近、この旅先にやってきた者であるのかの違いでしかない、と最近ではよく思う。

年齢が近い者同士は、同じ時間を生きる機会が多い、ということも一般的には言えるだろうけれども、縁遠ければ同年齢でもあまり親しくなることがないであろう半面、何十歳も年齢が離れていても心深く交流していれば、魂の友のごとく親しい間柄になる魂もあって、年齢はかならずしも、人間関係の最重要項目ではないようにも思えてくる。

 

この旅を、出来る限り良き旅として楽しみ、旅のさなかにも、他の人たちへの愛に生き、そうした互いに助け合い、存在を尊重し合って、豊かな人生を生きて、そうして、自分の旅が終わる時には、笑顔で帰って行けるような、そうした旅人でありたいものですね。