あなたの神を愛せよ。 他人があなたを通して、その神を愛するために。(タルムード)
本当に、その人が心から成る神への信仰心を持っているのなら、
その人を通して、神の愛は輝き出る。
そうして、その人を通して、周りの人たちも、神の愛を感じ取ることが出来る。
多くの人たちを信仰の世界にいざなうためには、
まず、神を信じている私たちが、愛の人とならねばならない。
神がすべての存在を、愛し、育まれているように。
わたしもまた、自分をめぐる世界、人々を愛すること。
その姿を見ることで、まだ神を知らぬ人たちも、神の愛の片鱗を感じとり、信仰に目覚めることが出来るのだろう。
愛の伝道者たるべきこと!
人が心の中に、自分自身をいかに感じるかによって、 神は存在するし、或いは、しないのである。 その人が善良であり、愛に満ち、正義を好む人間であるか、 或いは、復讐を忘れず、邪悪な人間であるかどうかによって、 神は存在するし、或いは、しないのである。(タルムード)
神を、自分自身の心のうちに感じ取れる人は、神の実在を信じることが出来ている。その人の心の中に、神は確かに、存在する。
心の中に感じることも出来ない人は、神などいないと、平然と言ってのける。その人の中には、神は存在しない。実在する神を、その人の心は察知できていないという意味で、存在しない。
しかしそれは、神が本当に存在しない、という意味ではなく、その人にとっては存在しないが如しということに過ぎなくて、実際はその人間の側の問題、心の未熟、認識力の低さに過ぎないのである。
邪悪な人間の心の中にも、神は存在しない、という後段のくだりも同じことで、
邪悪さの中に埋没している人間は、神の何たるかを知らないし、神の愛を感じとることも出来ないでいる、哀れな人間である、ということだろう。
神への愛は、高き理想を理解する道徳的感情である。 かくして、神に対する愛は、 道徳、正義、善に対する愛と完全に一致する。(チャンニング)
神を愛する者は、高い理想を心に抱いている。そこには、深い道徳的感情が宿っている。
大いなる理想、人類にとって目指すべき理想。それに伴う深い情愛と道徳観念、情熱といったもの。
神を愛する者は、優れた道徳心を備えており、正義を愛し、善なる心をもって、生きる者であるだろう。
これに反する生き方をしている人ほど、神への愛がまだ出来ていない、ということ。
神を愛することは、善を愛することを意味する。
あなたがたは、 私を「主よ、主よ」と呼びながら、 どうして私の言うことを、行わないのか。(イエス・キリスト)
神を信じる、と言うのなら、
人が常に幸福であるために、 何よりも早く学ばなければならない精神修養の第一は、 恭順ということである。 傲慢、虚栄は、親切、謙遜に、 その場所を譲らなければならない。
幸福であるために、とある。
神のもとで、幸福に生きられるために、と言葉を補完しつつ考えれば、
ここで言う恭順が、神に対する恭順であることが、容易にわかるというもの。
傲慢な心でもっては、恭順とはなり得ない。
虚栄心に満ちた自己愛者もまた、恭順さの何たるかを知らない。
謙遜な心、他の人に親切な心、そういう心の持ち主にならなければ、恭順さはわからないし、恭順なる気持ちで生きているとは、言えないのではないか。
傲慢、虚栄を去ること。そうして、その座席には、親切心や謙遜さが座るように、みずからの心を変革してゆくこと。
恭順は、 自己満足的な、そして傲慢な人間には、 決して知ることの出来ない喜びを、もたらすものである。
自己中の自己満型の人間、傲慢な性格の人間には、決して得られないであろう喜びを、恭順なる心でもって生きている人は、得られるのだ、ということ。
これは、心からの幸福という名の、深い深い、魂レベルでの喜びであろう。
傲慢な人は、何ものをも得ることが出来ない。 なぜなら既に、あらゆることを 知っていると考えているからである。
傲慢なる人間は、自分に思い上がっており、まるで自分がすべてを掴めるかのように、自惚れきっている。
そういう心の人間は、本当に大切なものは何一つ、掴むことは出来ないのであろう。
心の中の幸福、魂における真の幸福、喜び、そういった喜びは、傲慢なる心には宿らない。
傲慢なる心が、本当に大切なる真実を、本当に美しい善きものを、すべて弾いてしまうに違いないから。だから何も得られないのであろう。