全4巻から成るトルストイ選、名言集。各巻からランダムに抽出し、引用・解説しながら、記事としている。
今日は、第2巻にある言葉。
もしあなたが、自分の仕事の結果を残らず見ることができたら、 その仕事は、意義のないものだったと言うことを知るだろう。
すぐに結果が出るような仕事は、大した仕事ではない、というようなことを言っている。
すぐに得られる成功は、小さな成功に過ぎず、大いなる成功からしたら、ちっぽけなものに過ぎない、という意味合いでも理解できる。
大いなる目的の実現、達成には、それこそ膨大な月日と時間が必要とされるのが普通であって、だから偉大なる宗教が世界に認められるまでには、何百年という歳月がかかったりするのであろう。
簡単に成果が出るような目標ではなく、人類が目指すべき大いなる理想の実現には、やはりそれだけの時間と月日がかかって、当然と言うべきであろう。
キリストの一生は、 人間が、自分の仕事の果実を見ることができないことの範例として、 特に重要な意味をもっている。 モーゼは、その国民とともに、 約束された地へ入っていくことが出来た。 キリストは、たとえ今日まで生きていても、 その教えの果実を見ることができないのである。
イエス様の願いは、2000年を経過した今でも、いまだ実現しているとは言えないのだろう。
だから、もしイエス様が、2000歳になるまで生きて、今日のこの日も、この世界にいてくれたとしても、そこに見られる世界は、いまだイエス様が目指した、愛の世界には程遠い世界でしかないに違いない。
そういう意味で、イエス様の目指された目標は、2000年の歳月を経ても、いまだ完遂まではされていないのだ、ということ。
人類すべてが、愛に生きるように、そうした世界となるように、人々に愛の生き方を教えたイエス・キリスト。
しかし人類は、いまだそのことを実現できていないのは、この世界を見ればすぐにわかることでしょう。
自分自身にとって、そして他人にとっても、 最も重大で必要な仕事は、 それをする人が、 その結果を知ることの出来ないものである。
吉田松陰が為した仕事、目指した目標は、松陰先生が生きている間には、実現されなかった。
松陰先生は、生身の、生きた人間としての目で、その結果を見ることが出来なかった。
イエス様も同じく、その為された仕事の結果を、その理想が実現する姿を、肉の目で見ることは出来なかった。
その人が生きているあいだに、肉体生命を持っている間に、その結果が出るかどうか。その結果を知ることが出来るか否か。
本当に重大で必要な仕事、偉大なる仕事というのは、それを為した偉大なる人が、生きているあいだに、その結果を見ることが出来ないようなものなのではないか。
偉大過ぎる仕事ゆえに、その結果が出るまで、その生命を生きながら得ることは出来ないほどに、大いなる時間を経て、ようやくにして少しづつ実現してゆくような、そうした理想の実現の姿がここにある。
結果がどうなるということを全く考えずに、 ただ、神の意志を成し遂げる一念からの行為は、 人の最も良き行為である。
目先の結果などに囚われることなかれ。
真に偉大な事業は、その事業の完遂をこの目で見るような、そうしたせっかちな思いでもっては、行い得ないようなものである。
それには、果てしない忍耐力と、生まずたゆまず続けてゆく力が要る。
そのためには、目先の結果などは度外視して、ただひたすらに、そこに思いを載せること、神の意志を成し遂げるための手足として、この命を捧げん、との生き方にこそ、真実の人生はあるのではなかろうか。
ここにこそ、人のもっとも良き行為があらわれる。
そう、トルストイは言っているわけでしょう。
あらゆる人間の行為が、 尊敬すべきものであり、良きものであり、 偉大なものであればある程、 ますますその結果は、遠いところにあるものだ。(ジョン・ラスキン)
本当に尊い、愛の人生、良き人生を生きているのなら、そうした生き方から導きだされる偉大なる結果というのは、遥かなる未来へと続く、そこまでのスケールを持った結果として結実してゆくものなのだろう。
愛に生きた人の人生は、今世の豊かさに限らず、来世、来来世にまで、その功徳を伝えて、豊かな人生を、遥かなる未来にまで約束してくれるような、そうした遠大なる結果を伴うもの、ということでもありましょう。
私たちの行為は、私たちのものである。 その結果は、神の仕事である。
ひたすらに、いまのこの時に、愛を込めて、情熱を込めて、自分の人生を生きようではありませんか。
そうして生きたあなたの人生、わたしの人生、その先にある大いなる結果はこれ、主なる神にお任せして、神への信頼をもって、この人生を生き切れば、それでよいではありませんか。
そんな風に語り掛けられてくる言葉にも、思えてきますね。
以上の引用文は、同じ章立てのところに分類されて、まとまって紹介されていますが、それぞれの文章は、別の書物で、別の人たちによって語られた言葉であったりします。
それをトルストイは、テーマ別に分けて、そのテーマがよくわかるように、並べて紹介してくれているんですね。
ちなみに私は、この章で言わんとしている趣旨が、よりわかりやすく感じ取れるように、オリジナルの本とは、並び順を逆にしたりして、紹介をすることがよくあります。
この記事でも、引用している順番とは逆さまに、上の言葉たちは登場していたりしますので、やはり、オリジナルの本をじかに読んでもらうにしくはなし。
同じ本を読んだら、あなたはどのように感じるでしょうか。わたしと同じ個所で感動を覚えるか、はたまた、まったく違った箇所で衝撃を受けるでしょうか。
読み方は人それぞれ、学びの仕方も人によって違ったりするのが、本を読むということの面白さだなー、と思いますね。