この世界は 道楽息子や娘から成り立っている。 彼らは最初、 何の値打ちもないことに浪費し、 次第に「父」から離れていくのである。 やがて、貧しさが彼らを襲ってくる。 そして彼らはその貧しさ(精神的な)に耐えられず、 「父」の元へ帰るのだ。 そして彼らは、生まれ変わったように、 初歩からの生活の道を学び始めるのである。
道楽息子や娘とは、わたしたち全ての人間のことだ。
この世に生まれて、きわめてこの世的なるものばかりに夢中になって、本来の自分が霊的なる世界の住人であったことを忘れてしまう。
そうして、父から離れていく。父とは、天なる父のことであり、すなわち造物主、仏のことである。
やがて、貧しさが私たちを襲う。ここで言う貧しさとは、精神的な貧しさ、精神的なる苦しみ、葛藤、悩み、そういった深い、根源的なる魂の問いに、悶え苦しむ、ということだろう。
ここで正直に、誠実に、真実に向き合う気持ちで、自分の心に真正面から向き合う覚悟のある人間は、その悩みの真剣度、深さによって、心のうちに、父を見出す。母と言っても同じこと。内なる父であり母である、仏神の存在に思い至る。
これが信仰への目覚めであって、真の目覚めには、それだけの深さがあるものであって、
だからこそ、第二の生となり、魂の新生ともなって、人は生まれ変わることが出来るのだ。
トゥワイス・ボーン。
こうして再び、人生の続きを歩み始めるが、それはあらためての人生であって、まるで初歩から人生をやり直すかのごときの、清新なる第一歩から始まるのだ。
三つの道によって、私たちは知恵を得る。 その一つは、思索である。これは最も高貴な道である。 他の一つは、模倣である。これは最も容易な道である。 最後の一つは、経験である。これは最も苦しい道である。
より高次の学び方を、上から順に言うと、思索の道、模倣の道、経験の道、という風に、分けることができる、
ということだと思う。
思索の道は、むずかしい。自分自身の力で、考える、思索する、それが出来るようになるためには、物事を深く考える力そのものを獲得しないと、実践することが出来ないからだ。
だから次善の策として、模倣、という方法がある。
誰か優れた人の考えに学ぶ、その生き方から学ぶ。聖人の書を読んだり、優れた師から学ぶ、というのは、そういうことだろう。
何か困ったことが起きた時、考えるべき重要なテーマがあった時に、自分自身で考えて答えを出す努力をすることが、思索への道となるのだけれども、これが出来るようになるためには、どのように考えるのが、優れた考え方であるのか、モノの見方であるのかを、誰か素晴らしい先生について、学ばなければならないだろう。
そういう先生、お手本、師匠から学ぶ、ということに、この模倣の道の出発点があるのだと思う。
模倣から入っていって、やがて自分独自の行き方を見出すというのが、芸事でもよく言われる自分磨きの方法論であると思う。
しかして、いつまで経っても模倣に終始するばかりでは、いつになっても自分自身で考える力は身に付かない。
あるいは、表面ばかりを真似ても、その奥にある思想、根本的なる精神を学ばないでは、単なる外面だけの模倣では、中身の無いガランドウになってしまうだろう。
模倣はあくまでも、修行のための入り口であって、最終的には各人、自分で考える力を持つこと、自立することが大切なのだと思うし、これが、神仏が人々を誘っている方法論であるはずだと、人類の歴史を見て、わたしは思う。
最後の、経験から学ぶ、という道。
本を読んだり、先生から学ぶ、ということをしない人間でも、経験から学ぶ、ということは、いやでもせざるを得ない。
そのなかでも、自分が身をもって経験した苦い経験、手痛い人生経験から、人は強烈なる学びを得ることが出来る。
なにしろ、自分自身が痛感する、そうした強烈体験だから、そこから感じ取った教訓は、その人のその後の人生観を規定してしまうほどの、新たなモノの見方を与えるだろう。
これが、経験から学ぶ、ということであるし、万人が必然的にゆかざるを得ない道、すべての人がこの道をかならずや歩んでいるものであろう。
ただし、人生経験からしか学べない、というのでは、学びが狭すぎることにもなるし、痛い目に遭わないとわからない、というのでは、万物の長たる人間としては、いささか恥ずかしい生き方であるには違いない。
だから、そういった痛い経験をすべて実体験してみないとわからない、なんて無様なことにならないように、わざわざ経験しないでも、それ以前に、知識的な学びとして、本から知識を得る、だとか、先生から指導を受けて、それに沿ってより安全な道を歩く、だとかいう、そういう人生の知恵も要る、ということだと思う。
カーライルは言った。
経験は最良の教師である。ただし授業料が高すぎる。
経験によって学べることは強烈で、自分自身の体験であるがゆえの、学びの強さ、深さがあるには違いないが、
そこで体験する辛さ、痛さ、悲しさ、その学びに要する歳月の長さ、等々、いろいろな面を考えてみると、あまりにも高い授業料を払っての学びみたいなものになってしまっている、ということだろう。
そこまで無駄な労力をかけずとも、前もって、知的にだけでも知っておく、だとか、そういった前学習、予習のような人生勉強を重ねておくことで、余計な苦労は敢えてせずとも、人は学習することが出来る、ということからも、前者の二つ、思索から学ぶ、模倣から学ぶ、ということの大切さが、わかろうというものだと、わたしは思う。