トルストイのことば「私が神に仕えるのであって、神が私に仕えるのではない」 ~日々の思索1より~ | LEO幸福人生のすすめ

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私は苦しい。 私は神に助けを願う。 しかし、 私のすべきことは 神に仕えることであるが、 神は私に仕えるものではない。 立ち止まって このことを思い起こせば、 苦痛は消えていくであろう。

 

困ったときの神頼み、とよく言われる。

 

苦しい時に、人は神に助けを求める。

 

しかし、助けを求めたら即、救いの光が降りてくる、わけもない。

作法もあるし、心構えにも条件があるのだし、何より普段はまったく神さまのことなど考えもしないで生きていたくせに、困ったときだけお願いして助けてもらおうなんて、ふつうに考えても、ちょっと虫が良すぎるのでは? と考えられますしね。

 

とはいっても、神さまは、大いなる慈悲の存在であるのだから、救いに至るためのキッカケなり、わずかの手掛かりなどでも与えてはくれないだろうか?

 

神に助けを願っても、苦しいままである。苦痛が消えない、という人よ。

 

あなたは、神さまが自分の召使のように仕えることを望んでいるのではありませんか?

そうではありませんよ。

あなたの方が神さまに仕えないといけないんですよ。

神が自分に仕えることを望むのではなくて、あなたが神さまに仕えようとの決意を持ったとき、そうした謙虚な心でもって、神さまに心を向けたときに、

 

これからどうしたらいいのかが、はじめてスッとわかるようになることでしょう。

苦しみの中から救い出されて、安らぎに満ちた、愛の道への第一歩を、どのような道を歩めばよいのかがわかってくる。

人生の新生、再出発、神のもとで人生をやりなおす、生き直す道が開かれる。

 

そのとき初めて、苦痛は消え去ってゆく。苦しみが取り去られて、癒されてゆくことを、魂が感じ取ることが出来る。

 

そういうことを、このトルストイの言葉は述べているのではないかと思います。

 

わたしたちが神に仕えるのであって、神がわたしたちに仕えるのではない。

あたりまえの、この道理がわかるかどうか。

謙虚でなければ、それはわからない。

自分に自惚れている人間には、この殊勝さがわからない。

苦しみから抜け出せないのは、自我我欲、自己愛のせいであって、

神さまのせいではありません。

 

 

キリストの最後に説いたことは、 彼の全ての教えを言い表している。 「私がお前たちを愛したように、 お互いに愛し合え。 そして後、 もしお前たちが 互いに愛を持ち合えば、 お前たちが私の弟子であることを、 全ての人は知るであろう」 彼は 「もしお前たちが、これを信じたら」とは言わずに、 「もしお前たちが愛したら」と言ったのである。

 

 

わたしは神を信じている。

これだけなら、抽象的なお題目のように唱えているだけで、容易に自分もそのつもりになれてしまうし、果たしてそれが本当の信仰になっているかどうかのチェックも、傍からは行われない。

 

わたしは信じています、だけでは足りていない、というのは、ここには自他をあざむく欺瞞が紛れ込む余地と危険性がまだ存在する、からでしょう。

だから、神さまを信じます、と言うだけでは真の実践になっているかどうかはわからない。

 

他の人を愛しているかどうか。あなたはあなたの隣り人を愛していますか。愛せていますか?

そう、トルストイは指摘しているのであろう。

 

他の人への愛が無いのなら、その人は、神さまを信じてもいないのであろう。その信仰はニセモノである。抽象的な神信仰に過ぎず、本当の意味では、神を信じてもおらず、だから他の人への愛も無い。

ニセ宗教者を見抜くチェックポイントは、ここにある、とも言えましょう。

 

他の人を愛しているかどうか。愛に生きている人であるかどうか、というのは、周りにいる人間から見てもチェックが出来ることですね。自称だけで、愛の人を語っていてもしょうがない。

真に、他の人への愛に生きている人であったなら、周囲の人からの評価として、この人は愛に生きている人だ、という評価が当然のように出てくるでしょう。

単なる自己評価ではなくて、他の人から見た客観評価でも、自己確認が出来る。独りよがりの自己評価では駄目、ということが、ここにも表れてくるということですね。

 

イエス・キリストは、まず第一に、主なる神を愛しなさい、と言いました。信仰ですね。

しかしてその次に、第二の課題として、汝の隣り人を愛しなさい、と教えられました。愛ですね。

信仰と愛は不離の関係であって、愛に生きてこそ、その人の信は本物であるのだ、ということを、わたしたちは深く理解していないといけない。

 

わたしは、他の人を愛しているだろうか。愛の人生をおくれているだろうか。

 

 

自分が 他人より優れているという考えに注意せよ。

 

 

これは、一般的に言っても、うぬぼれ心を戒める教えとして、とても重要な教えであるし、

 

宗教者を任じる人にとっても、自分が宗教知識の理解において優れている、という自惚れ、慢心を戒める言葉として、とても重要ですね。

 

宗教天狗にならないように。

宗教的なる知識をたくさんかき集めて覚えたことでもって、自分を宗教的な智者であるかのように自惚れてしまうこと。

自分はすでに、周囲のたいていの人より優れている、という慢心、自惚れ。

 

謙虚さがそこになくなっていたら、その人はすでに自惚れ心の中に在る、ということだと私は思います。

本物はいくら博識になっても、宗教的な知識をたくさん持とうとも、それでなお謙虚な姿勢、心を有しているものである。

過去の偉人や賢者を振り返れば、そのことがよくわかるのではないか、と思います。

 

 

あらゆる人は、 世界と神とに対する自分の関係を、 自分で打ち立てなければならない。

 

信仰は、精神に平和を与える。

 

神に従うことが必要である。

 

信仰なくして、 精神の平和を発見し得ると考えてはならない。

 

聖賢は 自分というものから、常に離れている。

 

 

短いことばの中に込められた、トルストイの信仰と愛の深さを感じ取りましょう。

 

信仰とは、いかなる心の状態を必要とするものであるか。

 

自分を離れるとは、どのような境地であるのか。

 

愛に生きるとは、どのような日々の生活を指して、そう言えるのであるか。