学理的な神認識は脆弱、信仰による神認識こそは真実、ということ | LEO幸福人生のすすめ

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ある人の神の認識は、学理的である。 かくのごとき認識は、脆弱であり、危険な過失に陥り易い。 

ある人の神の認識は、信仰から流れ出る徳性的なものである。 かくのごとき認識は、高き道徳を与える神に沿うものである。 かくのごとき信仰は、真実である。 (カント)

 

これは、哲学者カントの言葉。

トルストイが『日々の思索』に、この言葉を入れていることに注目したい。そしてまた、学理的な著作をしたカントの言葉であることにも、注目すべきだと思う。

 

学問的、学術的な考察であることは、もっとも優れたる考察法ではないし、最高の思考法でもないと、わたしは思う。

 

カントが上記のように比較しているが如く、

神を認識することに関しては、学理的なる認識・探求では不十分であり、信仰としては脆弱なレベルにとどまっている、という指摘は、まさに当たっていると思う。

脆弱なだけではなく、危険な過失に陥りやすい、ともカントは指摘している。

 

脆弱というのは、神への信仰とは何であるかを、ただ頭のなかの理屈のみで理解しようとしても、そうした理屈のための理屈だけの理解では、神のもとで生かされている幸福や、神さまに抱かれていることの喜びを、魂が感じることは出来ないから。

わたしたちは、頭だけで生きているのではなくて、心によって生きている。喜びや幸福感を感じるのは、むしろ心の方なのであって、だから心による実感を欠いた、頭でっかちなだけの理論倒れでは、真の幸福は得られない、ということでもあるのだと思う。

 

頭だけで考えて、神や宗教を探求した学者は数多いだろうけれども、理屈のみの理解を求めたがゆえに、間違った理論に陥って、そうしてかえって神信仰からは遠ざかった学者もまた数多いのではないだろうか。

理屈であれこれ、宗教とは何であるか、とか、神とはこれこれこういう存在である、と理屈を並べたとしても、その人の心に、神への信頼や信仰心が無いのなら、これは語るに落ちたり、ということになるのであろう。

信仰心も、感謝も、喜びも、幸福感も無いのなら、それは信仰以前の魂状態であって、だから脆弱なレベルにとどまるのであろう。

 

神の認識は、頭で考えた理屈ばかりで、そこへ至れるわけもないのであって、

心からの信仰によって、神さまと自分の関係を感じられるようになるのでないと、感謝や尊崇、信頼、幸福感を伴った、信仰による神認識に至れるはずもない。

神さまへの心からの信頼、これが無ければ、どうして人生の試練や苦しい状況の時であっても、その信仰ゆるがずに、生きて行けるような強い信仰心になり得ようか。

信仰にもとづいて、正しく生きようとの決意を持っているのでなければ、本当の意味での深い道徳心や、徳ある生き方を、どうして自分の心に宿すことが出来ようか?

そう、このカントの言葉( トルストイによる引用 )を読むと、あらためて感じさせられるのである。

 

有名な『幸福論』がいくつかあるけれども、バートランド・ラッセルの『幸福論』よりも、カール・ヒルティの『幸福論』の方が、遥かに宗教的に奥深いために、いっそうの感銘を受けるというのは、霊的な評価からしても妥当な評価とのことである。

学術的に宗教を論じるよりも、心によって神信仰をしっかりとつかんだ人の言葉の方が、はるかに読み手の心を打つのは、そこに真の神理解が宿っているからであって、文章から発されている光の強さが違うからではないか。

 

以前も引用したパスカルの言葉。

 

神の 形而上学 的証拠は、人々の推理からはなはだかけ離れ、その上すこぶるこみいっているので、さして感銘を与えない。 (パスカル)

 

 

学理的なアプローチでは、心からの信仰による神認識には、遠く及ばない。

あれこれと理屈を並べても、結局、理屈ばかりの袋小路に陥っているようなことになっているばかりで、心に感銘を与えてくれるような、本当の神認識のことばは見いだせない、ということだと思う。

 

パスカルの次のことばも私はよく引用させてもらっている。

 

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。信仰とはこのようなものである。理性にではなく、心情に感じられる神。 (パスカル)

 

 

信仰とは、心でつかむもの、心で感じる信仰であってこそ、人を幸福にもするし、豊かな人生観を導いてくれる信仰観を与えてくれるものなのだろう。

 

理性も大事なのは言うまでもないけれども、理性による哲学的な考察・認識のみでは、心で感じる信仰とは違っている、という点は注意しないといけないのだろう。

カントは哲学者であるから、その著書の内容は、理性認識による考察に満ちているのは事実だと思う。しかして、そのカント自身は、神への信仰を、あたまの理屈で考えているばかりではなかったのであり、カントもまた心でもって神への信仰心を抱いていたのは間違いないであろう。

だからこそ、冒頭の言葉が、カント自身から発されているのである。

 

心情に感じられる神。わたしたちは、心で神を発見できているだろうか。心によって神を信じているであろうか。

 

頭だけの理屈でのみ考えている人は、危うい。

それは、仏教学者や聖書学者でありながら、仏や神を本当の意味では信じていない、という人と同じような過てる状態にある、ということだと思う。

 

ヒルティの次の警句も、参考にすべきかと思う。

心からの深い信仰を得ていたヒルティにして、かくの如しの警句を人々に残していってくれていることに、注目すべきであると私は思う。

 

「まわりくどい「キリスト論」なんか要るわけではないのだ。
読者よ、がっかりしたもうな。実際のところ、当てにできるようなキリスト論なんか、ありはしない。
この救世主の「本性」や、この救世主を通じての救済の秘義を知るのは、神のみなのだ。
そういう問題に関する人間のおしゃべりのすべては、数千年らい、何の実も結ばぬように断罪されているのであり、また実際何人をも慰めたためしはない」 (ヒルティ)

 

 

これは、キリスト論などまったく不要、と言っているわけではないであろう。

ただそうした、理論のみによってキリストをわかろうとする態度、理性的なる、頭だけの考察理解でもって、神とは何か、キリストとは何かがわかる、などという頭でっかちの、頭だけの探求姿勢は誤謬に陥る、という危険性を指摘するために、ヒルティは、そんなものは要らない、と言っているのだと思う。

 

大切なのは、理屈のための理屈、ではないのであって、心によって、神さまへの信頼・信仰を得ることが大切なのであって、頭による理屈や理論理解は、それを下支えするためには役に立つとしても、頭のみで考えるばかりであって、心情による実感理解を欠いたのでは意味がない。

そういう注意点を述べているのだと、わたしは思う。

 

パスカルの言葉、ヒルティの言葉、いずれを読んでも、心による信仰、心情による信仰がやはり主なのであって、本物の信仰心の姿なのであって、だから信仰「心」なのであって、信仰「頭脳」ではないし、信仰「理屈」でもない、ということを肝に銘じておかないといけないのだろう。

 

心情による実感を欠いた、頭だけの、頭でっかちに陥った人の、あれこれの神理屈には、真理は宿っていないし、論理の追跡を途中で誤ると、神の実在や慈悲・愛をも見失うという、憐れな顛末に陥ること、かような実例の多くを見ることによっても、わかろうというものだろう。

 

↓ 参考;過去記事