自分の魂のルーツ(前世)を推測してみる 【ライブドア版過去記事より転載】 | LEO幸福人生のすすめ

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3年前の大みそかに書いた記事。

ライブドアブログに引っ越した直後の記事なので、こちらのアメブロには転載してなかったらしいので、こっちにもアップしとこう!

 

ブライアン・ワイス博士の前世療法関連の記事を書いたら、それとテーマ的に関係してる記事にこのタイトルがあったので、ありゃ?これはどんなことを書いてたんだっけ? 

と自分で読み返してみたら、後半トマス・アキナスについて結構大切なことを引用解説してたので、再アップしようか!と思った次第。

 

以下、再掲記事です。

 

 

 

これはあくまでも、自分がいま現在知っている歴史上のさまざまな知識から、推測しているだけの話なんですが、

自分の魂の傾向性、幼い頃から、中高、大学生といった学生時代の傾向性、そののちの大人になってからの魂の変遷を振り返ってみるに、
やはりどうしても、自分は前世において、東洋であったら僧侶、西洋であったら修道士、のような人生をおくったとしか思えないんですよね。

それはなぜかと思うに、青年時代の極度の内向性、それと同時に、知識や思想に向かう探求心の強さ、学びは徹底的に深めないとわかった気がしない。そういう自分の魂の傾向性ですね。
よほど確信の出来たことでないと、自信満々になってしゃべることが出来ない。思い付きの軽々しい発言などは、しようと思っても出来ない。発言する以前に強力なフィルターがかかっていて、そのフィルターを突破しないと、しゃべることすら難しい。そうした言葉を発する前の壁のようなものが、自分の心の外側にある。というか、言葉をむやみに発してはならない。よくよく考えて、正しい言葉を語ること、他の人を誤らせることのない真実を語ること。みたいな掟のようなものが、自分の魂に刻まれているとしか思えないからですが。

そういう疑問がずっと学生時代から感じられていて、それがやがて宗教思想を学ぶなかで、ひょっとして自分は、前世において、そのような傾向性を身に着けるような人生を生きたのではなかろうか。
ということに気づき始めて、修道士の人生や、僧侶が行う修行の徳目などを知識的に知ってみると、ははぁ、やはりそうに違いない、と思えて仕方がないわけです。

主とした関心は、かなり西洋の方へ引っ張られるところがあるので、たぶんヨーロッパの方に出ていて、そしてたぶんですが、修道士ですね、こっちの方に出て修道士としての人生を生きたのではないかなーと、かなり濃厚に感じるわけです。

修道士としての修行期を経て、その後、大きな活躍をしたキリスト教思想家を、わたしはとても尊敬する気持ちが強いんですが、トマス・アキナスとか、頭いいなーと、本当に感心しますしね。
聖ベルナルドの深い思索と智慧にも感銘を受けるし、アッシジの聖フランチェスコの無欲さ、無私なる愛と信仰の姿に胸打たれる思いがしますしね。尊敬する気持ちがひじょうに強いわけです。憧れる気持ちがとても強くあるんですよね。

などといって、ぜんぜん違っていたら笑ってしまいますが。

トマス・アキナスの伝記などを読むと、そうだよなー、あれだけ深い叡智の人になるためには、やはりこうした子供時代を送りつつ、自身の内面に深く沈潜して、智慧ある自分を確立していかないといけないよねーと痛感させられますしね。
 

ラテン語を読むことを覚えたトマスは、モンテ‐カシーノ修道院の豊富な蔵書のなかからアンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムス、ベネディクト、大グレゴリウス、セビリアのイシドールス、さらにアンセルムス、サン‐ヴィクトルのフーゴーなどの著作にある程度親しんだと想像される。伝記者はそろってトマスは落ち着いた、口数の少ない少年で、同僚をさけてひきこもりがちであったと記しており、かれは多くの時間を読書にあてたにちがいないからである。


トマス・アキナスを引き合いに出して、自分の魂の傾向性を分析するなどおこがましいかもしれませんが、わたしも幼少時代から高校・大学時代の自分は、こんな魂の傾向性タイプの人間でしたよ。
落ち着いている、とは今でも言われることだし、口数の少ない少年、これも間違いなくそうでしたねー。学生時代のわたしを知っている人に訊いてみたら、驚くほど寡黙な学生だった、と言うに違いないですからね。そのくらい寡黙にして、滅多に言葉を発しない、というくらいに物静かな自分であったし、内向的な性格でしたね。
で、趣味としては、絵を描いたり、ひたすら本を読みまくっては、知識を積み重ねたいと願っていた自分でありましたからね。
なんで自分は、こうも寡黙な性格なんだろうかー、家族や親しい人とは冗談を言ったり、ひょうきんなことも言ってたんですけどねー。そう簡単に他人と親しくなれない、人見知りが強い性格だったと思うんですが。いまはだいぶ違ってますけどね、ちなみにですが。

トマス・アキナスは、弟子の修道士たちに、つぎのような指導をしていたそうですよ。

 

 

「あなたにたいするわたしの 誡 めと指示はつぎの通りです。」  
「すなわち、口を開くのは遅くして、談話室に入ることを遠慮しなさい。良心を潔く保つようにつとめなさい。祈りに専念することをやめてはなりません。もし(知恵の)酒倉へと導びかれたいなら、できるだけ自室にとどまりなさい。だれにでも親しみをもって接しなさい。他の人々のやることについて、けっして好奇心を起こさないように。だれとも、あまり親しくならないようにしなさい。なぜなら、過度の親しさは軽蔑を生み、勉学を 等閑 にする機会を生ずるからです。


しゃべることばかりに忙しくしているような、おしゃべり屋になってはならない。そんな暇があったら、一人静かに自室にこもり、心を静め、祈りの時間を取り、勉学に勤しみなさい。沈黙の時間にこそ、みずからの内面に沈潜し、知識を確実なものとし、認識を深めることが出来るのだから。

そう説教されているように感じられる、このトマス・アキナスの言葉を読むと、おっしゃるとおりです、そのように自己を鍛錬いたします、と返事したくなるような気がするくらいですからね。
これ、また生まれ変わって、子供時代にこういった指導をされたとしても、わたしはハイわかりましたと素直に納得して、軽々しくしゃべることは控えて、静かに自室で勉強することに集中すると思います。

誰ともあまり親しくならないように。けれども、誰にでも親しみをもって接しなさい、とあるように。
これは多くの人との交流にばかり時間を取られてしまっては、自分を磨く時間を取れなくなるから、ほどほどにしなさいよ、という意味に取れますし。それと同時に、けれども誰にでも親しみをもって接しなさい、とあるように、これは他の人に無関心でいい、という意味ではないのは明白ですからね。
独り静かに自室にこもって勉学に励まないと、十分な勉強をすることは出来ないし、見識を深めることは出来ない。だからむやみに人付き合いに時間を取られることなく、適度な距離を取って、自分を磨くことに集中しなさい。
けれども、他の人のために生きることこそが、人としての本義であり、大切な徳目であるのだから、誰に対しても親しみをもって接し、もし役に立つことが出来るのなら、その人のために助力を惜しまないように、そうした生き方をしなさい、と言われているのだな、と感じます。

これ、自分自身の魂の傾向性とかなり合致するし、えらく納得するスタンスなので、このへんの自己分析と、宗教修行の歴史的実態を比べると、自分はどうやら、ここで描かれているような人生をおくってきた人間に違いない、と感じるわけです。

 

 

 

 

読んだり聴いたりしたことは、かならず理解するようにしなさい。疑問点についてはたしかめ、容器をいっぱいにしようと望む人のように、できるかぎりのものを精神の倉におさめなさい。やたらに高いところのものに手を出さないように。


これも、学習に向かう態度として、私自身は高校生くらいの時から、わからないことがあったら、わかるようになるまで徹底して探求する、理解できるようになるまで考えてみる、という習性がたぶんにあったので、
たとえば、数学や物理の課題や問題に出合って、難しいな、どういう意味だこれは?と疑問に感じた場合にですね。
難しいから、こんな問題わからなくていーや! なんていう風には決して思わないし、わからないから投げ出す、なんてことはしなかったですからね。
わからないのは、自分の認識が足りていないからだ。数学の問題にしても、物理の問題にしても、十分に理解できていれば、この問題は解けるはずだし、この課題の意味も理解できるはずなのだ。
しかし今の自分が理解できないのは、これを正しく理解するための知識や勉強が足りていないからだから、もっと深く追求しないといけない。足りていない知識を埋めてしまって、理解が出来るような自分とならねばならない。

という風に、自分としては考えるわけですよ。魂の傾向性として。
とはいっても、別にガリ勉くんだったわけではありませんけどね。人の何倍も勉強して理解を深める、というよりは、要点を的確にキャッチして中心軸を押さえてしまって、理解を正確にする、早める、という方向性をわたしは好んだので、まず最初に幹はどこだ、どこを押さえれば中心概念を押さえられるのだろう、みたいな注目の仕方をしていたように思うんですけどね。
いちばん大切なポイントを押さえてしまって、それが出来たら、その周辺を固めてゆく、みたいな勉強スタイルが、自分に向いた勉強方法だったように、いまとなっては思い返したりしますけれども。

ここで、トマス・アキナスが注意しているように、

 

 

 

 

読んだり聴いたりしたことは、かならず理解するようにしなさい。


せっかく読んだり、聴いたりした内容なのだから、きちんと正確に理解するようにしなさい、ということでしょう。正しく読む、正しく聴く。活字を読む場合には、精読して、間違いのない理解の仕方ができないといけませんよ。そして、正しく内容を理解するようにしなさい。
そう、トマス・アキナスは注意してくれていますからね。

 

 

 

 

疑問点についてはたしかめ、容器をいっぱいにしようと望む人のように、できるかぎりのものを精神の倉におさめなさい。

わからない箇所があったら、いい加減な理解のままほっぽらかして、なおざりにしておくことをしないように。きちんと疑問点の部分も追及して、納得がいくところまで考えて、あやふやなままにしておかないように。
緻密に、正確に、整理しながら物事は学ぶように。そう、トマス・アキナスは教えてくれているのだと思います。

容器をいっぱいにしようと望む人のように。
出来る限り、物事を、広く、深く、学びには限りがなく、無限の学びをこころざし、目指しなさい。
 
やたらに高いところのものに手を出さないように。

しかして、あまりにも高次の内容に対して、高望みしすぎて、背伸びしすぎて、無謀な挑戦をしすぎないように。

これは、謙虚さを忘れるなかれ。人間としての分を超えることなかれ。みずからの至らなさ、小ささを忘れないように。という戒めであるとも思いますしね。

このあたりのくだりを読むと、トマス・アキナスが「神学大全」において、信仰と理性の関係をどのように捉えていたか、というポイントとの符合が見られますね。

人間知を超えた、遥かなる天上世界の神秘というものが、やはり存在するのだ。
それを人は、神からの使者を通じた啓示によって、知らされることがある。
この神的なる啓示、神の教えを聴くときには、人間知を超えた「信」の世界に入らないといけない。
それが信仰というものの本質であるのだ、ということかと思います。
理性を超えた、信の世界。
これは幸福の科学総裁である大川隆法先生が、信の世界と、知の世界、との関係学として教えてくださっていることとも一致する世界観だと、わたしは理解する者です。
 

トマスは後に、「哲学のほとんどすべてをあげて、その考察は神の認識へと秩序づけられている」と明言している


トマス・アキナスが好んだ哲学者はアリストテレスですが、アリストテレス以外の哲学のすべてを含めても、真の哲学というものは結局のところ、究極においては、神とは何か?そのための認識へとつながっている、神認識のもとに哲学体系は構築されているものなのだ、とトマス・アキナスは宣言しているわけです。

哲学はやはり、宗教に準ずる立場の学問であって、ナンバー2的な位置づけでちょうどいいのではないかなーと、いまの私はそう考えていますね。

トマス・アキナスは学生時代に「虚偽について」という論文を書いていたそうで、そこでは、真理と虚偽の違いについての考察が述べられているんですが、このあたりの考察の仕方も、さすがトマス・アキナス、思考が緻密で頭いいなー!と感心させられますよ。
真理は何ゆえに真理であるのか。虚偽とはどういう場合に虚偽となるのか。真実から目を反らし、あざむくもの。自分で自覚している虚偽もあれば、自分では知らず知らずのうちに虚偽に陥っているのだが、その人はそれを真理と勘違いしている、とか、いろいろな視点から考察が述べられていて、トマス・アキナスの思考分析の緻密さが垣間見られます。

あとは、トマス・アキナスの伝記を読んで興味深かったのは、当時の大学の神学部において、学生たちを指導する神学教授の資質、尊厳について語っている内容ですね。

 

 

 

 

(中略) … 神学教授の尊厳について、山にたとえられた教師たちはそびえる山々の高さ、輝き、堅固さにふさわしく、 生活の卓越性、 精神の明澄さ、(反対者にたいして信仰を擁護することのできる)堅固な弁証の力をそなえていなければならないとのべ、それら三つの要件を、当時の神学教授の三つの主要な職務であったと説教し、講義し、討論すること、に対応させているのが注目に値する。


反対者にたいして信仰を擁護できる人間でなければならない。そのために、堅固な弁証のできる人間でなければならない、と言っている箇所があります。
真理に対して、それを否定する者、批判する者が現れた場合に、これを理路整然とした論でもって切り返し、論破することによって、真理が真理であることを論じられる弁証の力が要る、ということですね。
こうしたディベート力が神学を講じる教授には必要だ、ということでしょう。
それは確かにその通りですよね。
真理に対して、皮相なレベルの批判を言ってくる人間に対しては、それを一蹴できるくらいの弁論の力を持っていなければ、真理を語る立場の人間とは言えないし、あまりにも学びが不足していると言うしかありませんから。
真に真理を知ったのならば、それにさからい歯向かう者のたわ言などは、弁論の力によって打ち破れなくてはいけないでしょう。

これは、大川隆法先生も、はるか以前にあった邪教とのディベートに関する指摘を、最近のお話でなされていたと思うし、HSU設立の際にも、HSUの学生にはディベートが出来ないような学生はいない、とか、そんな話もあったかと思います。
むやみに論争に走る必要はないけれども、いざとなったら、敵する者とは真っ向から対峙して、それをディベートによって打ち破れるくらいの言論力はやはり必要だし、身に着けるべく努力するべきだとやはり思いますからね。

しかしてそのディベート力や、真理を語る力があったとしても、それはその人個人の自我力によるものではないし、そういう自惚れ心は禁物でしょう。
己の力量にばかり頼り、慢心する者は、転落の危険あり。神に仕えるのではなく、己こそを高しとすることの危険性もトマス・アキナスは見抜いているので、以下のような注意もきちんと行ってくれています。

 

 

 

 

トマスは神学教授、そして一般にすべての教師が、真理の伝達者であるかぎり侵すことのできない尊厳を保持していることを強調すると同時に、自らの力によって真理と知恵を伝達しうる、つまり全き意味で教師であるのは神のみであって、人間である教師たちはそのような神の業に奉仕するかぎりにおいてのみ真理の伝達者であることを指摘する。


真理を証しする者は素晴らしい。真理を伝達する者は尊い、と謳いながらも、しかして人の成すことである以上、そういう人であっても完全ではない。間違えることがあるのだ。そうした謙虚さを忘れてはいけないし、過ちを犯した場合には素直に非を詫び、反省する気持ちを持っていなくてはいけないよ、ということでもありましょう。

真に、本当の意味で、全き意味においてパーフェクトな教師であるのは神のみであって … 

と言われる場合の神とは、いまのわたしにとっては無論、主エル・カンターレですが。

このことも新刊の中に収録したご法話のなかで、該当する話があること、信者諸氏はすでにご存じかと思いますけれども。
さまざまな師のような存在があまたあっても構わないけれども、最終的に、究極のところにある根本伸として、あなたはどの神を信仰するのですか?という問いですね。

これにわたしは自信を持って答えたい。
それはむろん、主エル・カンターレですと。





* この記事、6,800文字も使ってる!! Σ(・□・;)。
  原稿用紙17枚分。まぁ、1時間くらいかかって書いたのかなぁ。ハッハッハ。