自分を他人よりも神聖だと考える者、悪徳や愚かさは自分にはないと誇りをもつ者、自分を賢明だと信じたり、いかなる面においても仲間より優れていると思い込んでいる者は弟子となることはできない。
自分を特別視して、自惚れる人間は、
神聖なる神の教えを正しく学び、これを自らの魂にきちんと身に着けることは出来ない、ということを言っているのだと思う。
自分が神の子なら、他の人間もまた同じく神の子として、神さまは一視同仁に愛しておられる。
にも関わらず、己のみは他に優って優れているから、特別なのだと思い上がり、そうした評価を求めるようであったなら、これは神さまが見ている目とは違って、自分だけを特別視してほしいというエゴイズム以外のなにものでもない。
また、自分の中には、悪徳は無い、愚かさも無い、悪の萌芽すら無いし、愚かさには程遠い賢い人間なのだ自分は、と思う人間もまた、同様にして自らに自惚れている人間なので、
こういうおごり高ぶった心の状態になってしまうと、人は謙虚にみずからを顧みて、反省をしなくなる。
現状の自分がすでに、賢いのであって、愚かさや悪徳からは離れている、と思いあがってしまえば、悪がひそかに心の中で巣食って悪化することにも気づかないだろうし、みずからの今の知能に自惚れたら、そこに欠けている視点が多数あることにも気づかなくなる。
自分に自惚れる人間は、自己の客観視が出来なくなる。外から離れて、自己を観察するという見方が出来なくなり、自己中という名の海に覚えて、自分を見失った状態となる。
こういう心の状態であっては、弟子の道に反する。そもそも、弟子になる資格すら無い、という戒めを、ブラヴァツキー夫人を教えてくれているのだと思う。
愛他主義を実践しない者、自分の最後の一口の食べ物 を、自分より弱い人、貧しい人に分け与えようとしない人、いかなる人種、国民、宗教の者であろうと、またいつどこで、苦しみに出合っている者であろうと自分の兄弟を助けることをおこたる人、また、人類の苦痛の叫びに耳を貸さない人、罪のない人がそしられているのを聞き、自分を弁護するように真剣にその人を弁護しない人は、神智学徒とは言えない。
愛他主義というのは、他の人のために生きようとする心のことであろう。
利他の心、愛する愛の心、与える愛に生きんとする心、愛のために自分は生きよう、として生きている日々。
もし、その食べ物が、自分にとって最後の食べ物であったとしたら? …
その食べ物を、自分よりも弱い人、貧しい人に、その一部を分割して与えられる、そういう心の余裕を持って生きられているだろうか? 愛の心を持っているとはそういうことなのだ。極限状況を想定してみて、自分の心の判断を想像してみよう。そこで自分は、どのような気持ちを抱き、他の人に対してどんな行動をすると、自分自身で思えるだろうか?
なけなしの食糧だからといって、自分だけで食べてしまい、一片の欠片すら他者には与えずに、仕方がないことだといって自己を正当化する心はないだろうか?
苦しんでいる人や、自分の兄弟姉妹を助けることを、自分はきちんと行える人間であろうか? 見てみぬふりをして、無関心であったりしないだろうか?
人類の苦しみに対しても同様にして、知らんぷりで無関心であって、ただ自分自身が関心のあることにのみ汲々としてやしないだろうか?
ブログ記事などに関しても、自分の関心事のみ語っていて、いま世の中で問題となっていること、社会問題、世界で苦しんでいる人たちに対して、まったく興味も示さず無関心であったなら、これは自分のことにしか関心の無い人、と言われても仕方がないであろう。
その人が語ること、言及していることの広さ、深さ、世の中の解決すべき数多くの問題に関しても、少なくとも関心を持っているかどうか、というのは、とても大切なことだと思われる。
たとえ自分の見識つたなくて、語れることがなかったとしても、少なくとも深い憂いと感心を持っていることを示せている人と、まったくの知らぬ存ぜぬで、自分の個人的な関心のみしか興味を示せない人とのあいだには、魂の器に雲泥の開きがある、と言えるかもしれない。
弟子道のルールは多くのサンスクリット語やチペット語の本に書いてある。『キウ・ティ』の四巻の「ウパサンス(弟子達)の法」についての章によると、普通のチェーラに要求されることは次の通りである。
① 申し分ない健康体。
② 精神及び肉体上の完全な清潔さ。
③ 無私無欲の目的、普遍的な慈悲、あらゆる生類へのあわれみ。
④ 正直さと、カルマの法則に対する確固たる信念。
⑤ 真理を支持するのに命に危険があってもひるまない勇気。
⑥ 自分は顕現した神聖なアートマン(霊)の媒体であるという直観。
⑦ はかないことの客観的世界のすべてのものを正当に評価しながら、それに対して冷静で無頓着であること。
⑧ 両親から弟子道に入る許可と祝福を受けること。
⑨ 独身生活と、いかなる義務にも束縛されないこと
普通のチェーラ、というのは、ふつうの弟子、という意味である。
宗教で言えば、在家信者ということに相当する位置づけかもしれない。
ここでブラヴァツキー夫人が述べている<弟子たる者の条件>は、厳しすぎるであろうか? しかし、伝統的にインドやチベットで、真理を学ぶ弟子として努めるべき責務、戒めというのは、以上のようなものであった。
ということは、少なくとも知っておくべきではないか、とも思わざるを得ないであろう。
この、自己に対する厳しさ、戒めの気持ち、というのは、現代であっても、自己を律する厳しさとして、堅持すべきかと思われる。
現代は、もっと自由で伸び伸びした修業が許されるべきだ、と思う人は、自分を甘やかす気持ちがすでにその言葉に出てしまっているので、そういう緩い、自己への甘やかしにこそ注意すべきではないか、と思う。
その反対に、上に挙げたことを一字一句そのまま守らないといけない、と思うことも、これまた戒律至上主義の、言葉に囚われた人間の特徴となってしまうので、要注意かと思う。
1、健康であること。健康を維持するための自己管理、心の修養の大切さを知る。日々の実践。
2、心も体も、清潔を保つ、ということ。邪な欲望や淫らな行動に埋没する、ということをしない。
心身ともに、よく己を律して、道を踏み外さないだけの自己統御が必要、ということ。
3、無私無欲。己を空しくして、愛と慈悲に生きる。そうした決意をもって、生きること。
愛は、他人だけでなく、あらゆる生命への憐れみ、慈しみの心となって現れ出てこそ、本物だと思う。
4、正直に生きること。真実に対して、誠実に向き合い、事実は事実として捉えることが、大切。
そうでなければ、原因結果の連鎖を正しく見抜くことは出来ない。カルマの働きも理解は出来ないだろう。
5、真理を支持するために、たとえ己の命が危険に遭おうとも、これを怖れない勇気。
ペテロやパウロのローマ伝道ほか、命を賭して真理を守らんとした聖者の生き方、勇気に学ぶこと。
6、肉体としての自分、個性を持った人間としての、この私は、神聖なる神の子としての霊の顕現である、との直観を持つこと。心で感じること。神の子の自覚。
7、この地上世界、物質世界のことどもは、諸行無常であり、現れては消えてゆく、変転変化するものである。そういう意味での、はかなさを知る、ということ。しかして、そのはかないものでありながらも、それが存在することの意味をも、正しく知ることが大切。この世のことに、執われることなく、しかして、大切な経験でもあると知って、この人生を生きること。
8、弟子としての人生を歩むことを、両親に伝え、これを許可してもらうこと、祝福してもらった上で、弟子道を歩むこと。これは、自分一個の判断で、両親の反対を押し切って出奔したり、そういう茨の道を選ぶのは、極力避けるべし、という戒めかと思われます。
9、独身生活と、いかなる義務にも束縛されないこと、とあるのは、
自分一個の自主独立を守るためには、独身であることの方が望ましい、という、過去の時代の宗教者が選びがちであった道を推奨している、ということでしょう。
家庭を持てば、夫としての義務、妻としての義務、子供を養う義務、など、さまざまな課題に束縛されることになり、それだけ自分の心の修行に専念しきることが難しくなる。そういう厳しさがあるぞ、と。甘く考えるなよ、心の修行というものを、という意味かと思われます。
ゆえにこの上は、単に義務から逃れるため、という自分勝手な意味ではないのは、無論のことでしょう。
義務を放棄して、自分一個の魂を磨くことに専念してよい、というエゴの勧めではなくて、己の心を磨くというのは、それくらい難しいことなのだぞ、という意味をも含んだ、戒めの一つなのだと思います。
… つづく。