弟子道を果たさずに不満を述べる会員への詰問状 ~ブラヴァツキー夫人のことば~ | LEO幸福人生のすすめ

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協会一般に対して不満をいだいている神智学徒達がいるが、そのような会員に対して早まった約束をした者はかつて一人もいない。まして、協会も創立者も最もよくふるまった会員に「大師方」という賞品を提供したことはない。

 

何年もの間、あらゆる新会員には、何も約束することがなく、あらゆる進歩は、自分自身の個人的メリットからくるだけだと思うよう言ってある。

神智学徒には、行動の自由、不拘束が与えられている。申し出て大師のご指導を勝ち取ろうと決心していないのなら、気にくわないことがあったらいつでも外の所でやってみても差し支えない

 

しかしここでは、そのような決心をしている者に対して、私は次のように話しかけて尋ねよう。

 

あなたは自分の義務と誓いを果たしたのか? 

あなたは、協会と大師方、慈善や寛容、正義や普遍愛の体現者である大師方にすべての責任を負わせているが、弟子道に必要な生活を送ってきたのか? 

弟子候補に要求される条件を満たしたのか? 

 

自分はそのようにしたし、大きな失敗をしたことは一度もなく、自分の大師の智慧を疑ったことは一度もないし、もっと早く神通力を備えたオカルティストになろうと他の師匠や師匠達を探したことは一度もなく、思いにおいても行ないにおいても自分の神智学的義務に背いたことは一度もないと、心の奥底と良心において正しい生活を送り必須条件をすべて満たしたと感じる者は立ち上がって抗議せよ。

そのような人なら何ら恐れることなく抗議できる。

そうしても罰則も受けず、批判されることさえないだろう。

協会から排除されることもないのはもちろんである。

協会は、その見解が最も広く、最も自由であり、未知・既知のあらゆる協会の中で最も「寛容」だからである。  

 

この私の招きは答えられないままになるのではないかと思っている。

 

これは、ブラヴァツキー夫人が述べている言葉。

 

夫人が創った神智学協会に所属はしたものの、これに不満を抱いて、離反し文句を言う、一部の不心得者に対する、夫人から述べた詰問状とも言うべき返事であるのだと思う。

 

神智学協会は、会員たちに対して、行動の自由を許しており、決して拘束などはしていない。

協会を指導してくれている大師たちの指導を、みずから努力して受けようと決意をしていないのなら、そうして気に食わないというのなら、いつでも辞めてくださって結構。脱退して外でやってもらって、一向にかまいません、とブラヴァツキー夫人はここで述べている。

 

さまざまな不満を述べる人間が、このような態度に出るが、そもそも協会は、そこに会員として所属したからといって、大師たちからの個別指導を誰もが受けられる、まるで商品を与えるかのように、などと教えたことは一度も無い。

新規に会員になった者には、あらゆる進歩は、あなた個人の努力に相応しいものが与えられるであろう、と述べているだけで、受けるに相応しくもないのに、誰もが特別の恩恵を受けられるなどとは、一度も言った覚えは無いのである。

そう、ブラヴァツキー夫人は前の段であらためて問いかけつつ、

 

先の文章につづく次のくだりでは、

こうした不心得者の離反者たちに、いくつかの詰問を突き付けて、あなたは会員としてやるべきことを全てきちんとやったのですか? やったと宣言できるのですか? と問うています。

 

いわく、

 

会員としての務め、義務とも言うべき課題を行なったのか? 誓いを果たしたのか?

誓いというのは、入会のときに為した、協会と、それを指導してくださっている大師がたに対しての誓いですね。

これを称して、弟子道、弟子として為すべき課題、というものも、別の章では明確に説かれています。

これを実践し、守ったのか? やるべきことを本当にちゃんとやって、そう言っているのですね?

そう問いかけ、詰問してきているわけです。

 

慈善のために生きた、生き切ったと言えますか。これまでの時間を、そのように生きて来たと宣言できますか?

寛容な心でもって日々を生きていると言えますか?

正義のために、普遍的なる愛のために、その体現者として生きてくださっている大師たちに、全責任を負わせて、自分は無責任の好き勝手な状態で、文句ばかりを言っているのではありませんか?

 

これは、神仏の責任ばかりを言い、高級霊や天使たちの責任ばかりを問うて、そうして自分自身の責任はいっさい顧みない無責任な人間がよく陥る行動パターンですからね。

 

神仏は人類を愛しているのだろう? だったら人類の不幸をなぜ放置するのか? なぜすぐに救ってやらないのか?

天使がいるのなら、なぜ地上で苦しんでいる人がこんなに大勢いるのか? なぜ救わないのか、すぐに?

そう言って、神仏や天使たちに文句を言う。そんな神仏や天使などは信じられないと文句を言う。不満を言う。

 

こういう人物が、じゃあ自分自身は何か努力をしているのか、地上の不幸や人々の苦しみを救うために? と言ったら、なんにもしてやしないんですよね。

こういう輩は言います。自分はそこまで偉くない。凡人に過ぎないし、天使でもなければ、神や仏でもない。だから自分には、人類を救う義務など無い、自分のことで精一杯であるのだ。

そう言って、自分の怠慢は許されると思っている。偉大なる神霊のみに、人類救済の責務があるかのように言って、自分はそのために一切協力するつもりもないお気楽さの中で、神仏や天使に文句を言っている。

自己中人間のエゴイスト以外の何物でもない、と言うしかないでしょう。この無責任ぶりと、責任転嫁の神仏への文句には、なんらの正当性もありませんね。自分を棚に上げた不平不満の卑しさが、ここにはあからさまに出ているのだ、ということを自覚しないといけないのだと思います。

 

こういう不肖の弟子であっては、弟子としての務めを全うしているとは到底言えないわけで、それをやっているのだったら、その人間は恥知らずと言うしかない。

 

ブラヴァツキー夫人が指摘している言葉を、そのまま裏返して適用して分析してみれば、

 

弟子道に必要な生活をおくってこなかった。弟子候補として要求されている条件を満たしていない、そういうレベルの弟子たち。

大師の智慧を疑い、他の師匠はいないかといって他を探してばかりいて、本道を徹底する努力もしない弟子たち。

神智学協会に属しておりながら、そこで掲げられている義務を放棄して、それに背いた生き方を平然としてきたような弟子たち。

自分の心の奥底にある良心に誓って、自分は正しい生活をちゃんと送ってきました、必須とされる基本的条件はすべて満たしました、達成しましたと言いきれる弟子がいるなら、その人は立ち上がって抗議をしてよろしい。

 

そう言って、ブラヴァツキー夫人は、不満ばかりを述べる自称・弟子たちに、詰問の言葉を投げかけているわけです。

 

しかして、この問いに、答えられる人間はいないであろう、と最後に締めくくりの言葉を述べています。

いるわけがありませんね。

 

これらのことを全うしていたら、とてもではないが、大師がたに不平不満を言ったり、自分を棚にあげた責任転嫁の偉そう文句は言えなくなるのが、人間として、弟子として当然のことだからです。

自分としてのやるべき務めも果たさずに、不平不満をかこって、離反しイチャモンをつける人間は、自分の無責任と怠慢を理解しない、自分の非を自覚しない愚か者と言うしかないのでしょう。

 

こういう退転者、今で言えば退転アンチというのは、いつの時代にも存在し、現代における偉大なる宗教組織においてもまた、この手の人物は現れるのだなあ、ということを、あらためて思わされますね。

 

弟子としての務め、弟子道、これを私たちは正しく成しているでしょうか?

仏教の信徒を名乗るのなら、仏教の教えをきちんと守って、弟子としての謙虚さと精進を、本気で成しているかどうか?

キリスト教を信じていると称するのなら、神への従順なる信仰の心があるかどうか、イエス様が教えてくれた、汝の隣人を愛せ、という教えを、正しく守り、実践しているであろうか?

それをせずに、不平不満を言い、神仏や高級霊に文句を言って、さらなる注文を掲げる人間こそは、禍なりですね。

これは、弟子道を果たさずに生きている人間、ということになるのでしょう。

反面教師、いな、教師という言葉は使いたくすらない。そのようになってはいけないダメな例、失敗例として、反面弟子としての教訓を、これらの事例からは学べるのではないかと思います。