十二使徒の遺訓 | LEO幸福人生のすすめ

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1世紀から2世紀の頃に書かれたとされる、初期のキリスト教の文書『十二使徒の遺訓』というものがある。これを最近読んだ。
のちの教父たちの著作にもしばしば引用された、重要かつ著名な資料だとのこと。

冒頭にある文章は、以下のとおり。


『二つの道がある。その一つは生命の道であり、もう一つは死の道である。この二つの道には大きな相違がある。』

とあり、生命の道とは、まず第一に貴方を創った神を愛しなさい、第二に自分自身を愛するように隣人を愛しなさい、と説明がつづく。

自分がしてほしくないことは、他人に行わないようにしなさい。
あなたの敵のために祈りなさい。といった、福音書にある言葉も数多く紹介されている。


二重の意見を持ったり、二枚舌を使うな、という戒めもありますね。
神を信じる時もあるが、信じない時もある、などといった相反することを平気で両方使うような、二重の意見の持ち主になってはならない、ということもこれに含まれるでしょうね。
旗幟を鮮明にして、信仰者の立場に立つのか、それとも不信の中に生きるのか。生命の道に入るのか、死の道を歩むのか。どっちつかずの優柔不断がいちばん駄目で、これは自己保身ゆえにどっちつかずの態度を取る卑怯さに起因するのではないか。


不平を言うな、不平は冒涜へと通じるからである。という言葉もあります。
不平不満、特に信仰における不平不満、神に対する懐疑、不満の思いは、冒涜の気持ちそのものと化すでしょう。神への冒涜無しに、神に対する不平不満や疑心は抱けるはずもないのだから。
神に対する敬虔な思い、謙虚なる思いをもって向き合う人間が、どうして神に対してあれこれ注文をつけたり、不平不満の言葉をぶつけるでしょうか?
不平不満の心は災いなり。それは自己防衛、自己中心、自我我欲から出ている、外に対する不満、他者への不満、神仏への不満であり、自分を中心にした不満足の発信以外の何物でもない。


対立を起こさず、争う者を和解させなさい。正しく裁きなさい。などという言葉もあります。
汝裁くな、自身が裁かれんがためなり、という言葉もありますが、これはアラン・カルデックによれば、あらゆる裁きを禁じているわけでは別にない、という霊的なメッセージも近代では降りています。
自分自身がその課題を克服できていないようなことで、他者を裁いてはいけない、という意味に解すべし、ということであって、だから他人の梁を取り除く前に、自分の梁を取りのぞけ、という言葉とこれは一致する部分があるわけです。
したがって、他者を批判する、あるいは説教する、裁く、という行為を行なう場合には、それを正しく行いなさい、ということであるわけです。決して行ってはいけない、という意味ではないんですね。
そして裁く際には、依怙贔屓をしてはならないのだ、とあります。
これはゴールデンルール、黄金律の鉄則そのものですね。依怙贔屓をしてはならない、というのは、その裁きの基準は、他者を裁くのなら、自分も同じ基準で厳しく裁かないといけない、自分を依怙贔屓してはいけない、自分に甘く、他者に厳しく適用してはいけない、ということでしょう。
自分自身が、その裁きの基準に照らして潔白ならともかく、自分も同じような罪を犯しておりながら、自分の罪には知らん顔して棚上げし、それでいて他者が犯した同じ罪に関しては糾弾する。これは駄目だ、ということですね。
自分も他人も同じ秤で測らないといけない、公平に裁定しなくてはならない。そのルールを相手に適用するのなら、自分自身も当然そのルールに照らして潔白でなければ、他者を糾弾する資格は無い。自分を棚にあげたダブルスタンダードを平然と行う人は、その黄金律を私的目的で悪用しているだけで、自分自身そのゴールデンルールを破って平気でいる破廉恥罪を犯しているのだ、ということでしょう。これは駄目だ、ということですね。


そうであるか否か、迷ってはならない、という言葉もあります。
これも、優柔不断、決断できない、あれもこれも、みたいな優柔不断な態度ではダメだ、ということでしょう。イエスorノー、どちらであるか、延々と迷っているようではダメだ、ハッキリしなさい、勇気を持って選びなさい、腹を決めて覚悟を持ちなさい、というのも教わっていますね。最後はハッキリと意見を決め、選択をハッキリしないといけない、いつまでもあれこれ言って結論を先延ばしして、結論を出さずに逃げているようではダメだ、最後はハッキリ決めること、徹底して考えた後では決断すること、それが大事だと言われています。


このようにして、西暦紀元一世紀、二世紀ころの、初期の使徒たちの書簡や言葉、教えをひもといてゆくだけでも、実に重要なポイント、心の持ち方におけるチェックポイントが、すでに数多く説かれていることがよくわかります。
主として、神に対する信仰において、他の人に対する愛において、どのような心を信徒は持つべきであるのか、どういった心ではダメなのか、わかりやすい言葉で語られていて、この文書がのちの教父たちにさまざまに引用され、教父たちの思想に大きな影響を与えていったことがうなずけます。