なぜ、こういうテーマの記事を書くのか | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
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それは、神を信じない、あの世など無い、という人がよく主張する「否定論の根拠」が、このあたりのテーマになることが多いので。


この世には多くの苦しみがある。神がいるなら、なぜ放置しているのか。助けないのか、といって、ならば神はやはりいないのだ、という主張、よく聞きますよねー。

それからまた、

死後の世界があった場合に、それを怖れるべきは、地獄に堕ちるような生き方をした人であろう、という論点もありますが、
地獄に堕ちるような人は大抵の場合、死後の世界がある、天国と地獄がある、ということ自体、認めないでしょう。唯物論の人生観の場合、死後の世界などは認めない。

しかし、死の間際になって、しかしちょっと待てよ、ひょっとしたら有るのか?という一抹の不安も捨てきれないのか、その場合は、死後の裁きが怖いし、改心したら救わるのだろうか、どうなのだろうか?みたいな気持ちにもなったりして。

「カラマーゾフの兄弟」の父ヒョードルは、無神論者で放縦なままの人生を生きたのに、でもひょっとしたら、万が一にも、死んだ後にも命はあるのかな、どうなのかな、と息子に不安そうに尋ねたりしていましたが、無いと言い張っていた人でも、確信までは持てていないのでしょう。

そうした迷いの中にある人が、死の直前に多少なりとも改心の思いを持った場合、どのような説明をしたら真実に適っているのか。


また、神が存在しないとするなら、この自分一個の生命が、やはり何よりも大切な存在であるに違いない、といって、自分の考え、自分の思い、自分の欲求、自分の感情、こういったものこそ「自分にとって」何よりも大切、と勘違いしてしまっても不思議はありませんしね。

俺は自分が神だと思っている。自分が神なのだ。というセリフを軽々しく吐く人は、自分の人生は自分で決める、自分の判断を最優先する、自分のかじ取りは自分でするのだ、という程度の意味合いで、自分は自分にとっての絶対者(=すなわち神)、という程度のニュアンスで、自称・神を名乗っていることも多いですしね。


あるいは、宗教にたずさわっている人、思想や哲学を細かく勉強している人であっても、言葉の定義に過剰なまでにこだわりすぎて、言葉に執われ、その言葉が説明している意味は二の次になっているというか、字義解釈が優先されて、精神の方は後回しになってしまって、意味を取り違える学者も多いように思うし、これは素人の読者であってもそうだと思いますが、

だから大切なのは、言葉の厳密な定義づけなどではなくて、その言葉が説明しているところの真意、精神のありよう、それをしっかりと正しく理解することの方が大切なのではないか、と思うので、そうした記事を書いて、自分の考えをまとめたく思って書いたんですけどね。



活字を通しての学びには、そうした微妙なる問題というか、理解を誤りやすい罠というか、欠点の部分もあるし、
それからまた、思い上がりや、自己主張が激しすぎると、客観的なる立場から見た、公正な視点というのを見失いがちになるので、

こうした注意点は、ポイントポイントにおいて、きちんとチェックしておかないといけない。
そうでないと、独りよがりの暴走をしてしまっていたり、気が付いたらトンデモナイ立ち位置に立ってしまっていた、なんてことにもなりかねないので、

ときおり、こういった論点での記事を書くことで、自分の考えを整理しておきたいと、そういう意味があって、自分は書いているんだろうなと思います。