罪と償い ~死の直前の回心によって、魂は救われるか?~  | LEO幸福人生のすすめ

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 ~シルバーバーチ 感想18~
 
 
死の直前に、懺悔をした人間の魂は、救われるのでしょうか? という質問に対して、
シルバーバーチの答えは、以下の通り。
 

神の摂理は絶対にごまかせません。生涯、自分を人のために役立てるチャンスを無視してきた人間が、死に際の回心でたちまち立派な霊になれると思いますか。霊体にまで染み込んでいる悪行(罪)のすべてを、一瞬にしてかき消すことができると思いますか。大霊の目から見たとき、人生を大霊と人々のために送ってきた人間と、霊的義務を怠ってきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべての過ちが 赦されるとしたら、神の摂理は公正と言えるでしょうか。いかがですか。


さんざん悪を犯し放題の人生を生きた人間が、死の直前になって、悔いています、お許しください、とひとこと言ったからと言って、それで救われるほど甘くはない。

ということを、ハッキリと明言しています。

霊体にまで染み込んでいる悪行、とあるように、過去に行為としておこなった悪事は、過ぎ去った昔の出来事にすぎないわけではなくて、その人の霊体にまで悪の刻印が成されている、ということ。

そういう魂であるのに、死の直前の、わずかの時間の後悔でもって、すべての罪を許される、わけがないでしょう、ということ。
これは、ふつうの感覚でいっても、それはそうだろう!と納得の道理であって、宇宙の摂理が完璧であるのなら、邪悪な罪に対しては、それ相応の罰があってしかるべき、だとやはり思いますしね。

極悪非道の所業を成した人間が、死の直前にあわてて改心の言葉を述べたくらいで、霊的に許されるのだとしたら、この人物に酷い目にあった人間、あるいは命を奪われた人間、その家族たちの悲しみは、どうして癒されるのでしょうか?

当人が悔いればそれで済む、という話ではなくて、多くの人を苦しめた罪は、その罪をあがなうという形で、借金の返済をしなければ許されるわけもないと、やはり思います。

カルマの刈り取りといい、蒔いた種は自分で刈り取らねばならない、という霊的法則が厳密に適用されるのだとしたら、数十年のあいだ犯し続けた罪は、それに相応するだけの長さの時間、もしくはそれに相当するだけの精神的な深さをもって償わないと、つり合いは取れないでしょう。

 

牧師「では、悪行のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかけているとしたら、罪を償わなければならないことを、その人間にどう説いてやればよいのでしょうか。」
「もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿しているなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになるはずです。ですから、その人にこう伝えてください。〝自分の犯した過ちの報いから逃れたいという思いがあるなら、あなたは真の人間ではありません。ただの臆病者です〟と。」


牧師はしかし、シルバーバーチの先の答えに納得ができず、悪人であっても死を前にして後悔している状態にある時、ではどのような説明をして、その人を諭したらいいのでしょう?と問いかけています。

いや、お前の罪は重いのだから、そんな簡単に許されると思うなよ。許されるわけがないではないか、などと説明したら、それこそ、死を前にした悪人は、後悔をしているにも関わらず、絶望のどん底に叩き込まれることになりはしませんか? ではその時、わたしはどのように話しかけたらいいのでしょうか? と疑問を呈しています。

これに対するシルバーバーチの返答は、罪を犯した人間に対して、厳しい、しかして当然そうあるべきだと思えるような、本質をハッキリと突いた返答の仕方を述べています。

本当に悔いているのなら、自分の犯した過ちを「正したい」という気持ちを持つはずである。

その正したいという思いは、みずから自身が、なにか償いの行為をさせてほしい、せずにはいられない、という気持ちとして現れるはずだ。

もし、そうした償いの気持ちすら無いままで、単に、過ちに対して生じている報いから逃れたい、そういう気持ちで懺悔しているのなら、あなたは真の人間ではない、臆病者に過ぎない!

そういった趣旨の返答をすればよい、と返答しています。
甘やかしの許しをする必要はないのであって、事実は事実、霊的な償いの法則はしっかりと担わないといけない。
そのことをきちんと説明すればいいのだ、と言っているようです。

 

牧師「しかし、罪を告白するという勇気ある行為は、誰にでもできるというものではないと思いませんか。」

「それは正しい方向への第一歩にすぎません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は自由意志で、善ではなく悪をなす道を選んだのです。悪行が招いた 結果から逃れることはできません。間違いは正さなければなりません。告白によって罪を消し去ることができると思うのは、自分に対するごまかしにすぎないのです。蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。それが神の摂理なのです。」


それでもまだ牧師は納得がいかないようで、なぜならキリスト教の教義では、罪を告白することによって、許しを与えてもらえる、という教えがあるからであって、

もし許されないのだとするなら、罪の告白の意味が失われかねないし、それに、罪を告白したその人は、勇気をふるって告白しているのだから、それに対しての納得できる理由付けが要るはずだ、というのですが、

罪の告白といっても、それは単に、償いの道を歩みだすための第一歩でしかない。とハッキリと言い切っていますね。
告白によって、罪が償われるわけではない。それは償いを始める、きっかけ程度のものでしかない。

自由意志によって、善ではなく悪を選んだ人間であるならば、その間違いは、自分自身で直さないといけない。犯した罪の償いは、当人が背負って返さないといけない。

そういう気持ちや、償うための具体的な行動意志も持っていない状態で、罪を告白したら許されるだとか、そういう理屈をいくら述べたとしても、宇宙の理法を胡麻化せるわけもない。

そもそも、罪の告白で許されるだろうか、などという甘い考えを持つこと自体が、自分に対する誤魔化しではないか。
本当に罪を悔いているのなら、その罪をつぐなうに相応しいだけの時間と労力、背負うべき重荷を、われに与えたまえ、と望むのが本当であるのではないだろうか。


さだまさしの「償い」という歌を思い出しますね。

交通事故である男性を死なせてしまった青年は、その男性の奥さんから人殺しと言われ、苦しみます。

死んでしまった男性を生き返らせることは出来ない。彼は苦しんだことでしょう。
自分のふとした不注意で、ひとりの人間の命を奪ってしまい、残された奥さんの人生までも奪ってしまったのだから。

彼は自分が犯した罪を償うために、何をしたのだろうか。

それからの毎日、一生懸命に仕事をしながら、月終わりに給料袋を手にするや否や、奥さんにわずかづつ仕送りをし続けるんですよね。
奥さんは、そんなことを要求していたわけじゃないし、彼にしても、そんなことで許されるなどとは思ってもいなかったでしょう。
それほどまでに自分が犯した罪は重い。仕送りをし続ける程度のことで許されるような罪ではない。

大切な旦那さんの命を奪ってしまった。取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだから。

しかしそれでも、彼は何かをせずにはいられなかった。
こんな自分に出来るわずかのことでもいいから、償いのための行動を何かせずにはいられなかったのでしょう。

彼のその償いの気持ちと行動は、彼を憎む奥さんの心にも何かを伝え始める … 。

罪の償いと、許しを歌った詩。



先の、犯した罪に対して告白する、というキリスト教的な行為の意味は、では、どういうことになるのだろうか … 。

シルバーバーチは、次のように説明してくれています。
 

大きな過ちを犯し、それを神妙に告白することで心の安らぎは得られるかもしれませんが、〝罪を犯した〟という事実は変えられません。神の摂理に照らしてその 歪みを正すまでは、罪はそのまま残っています。それが大霊の摂理なのです。イエスが語ったという言葉をいくらバイブルから引用しても、摂理を変えることは絶対にできません。


告白することによって、心の苦しみが幾分かは軽減され、安らぎの気持ちさえ幾らかは得られるかもしれない。

しかしそれだけでは、そうした内面の後悔や反省だけでは、罪を犯したという事実までは消すことが出来ない。

悔やんでいるという思いがあるのなら、その過去の過ち、事実に対して、自分は何をしたらいいのだろうか。どのような行動を取ればいいのだろうか。

真に魂が許しを得られ、犯した過ちの罪を償うためには、自分が傷つけた誰かの苦しみを償うためには、どうしたらいいのだろうか。

カルマの法則。蒔いた種を刈り取らねばならない。

それは今世において為されなかったなら、来世において為さねばならないし、来世にやらなければ、来来世に償わねばならない。

永遠の生命があり、転生輪廻という法則のもとに生かされている人間の魂は、そうした形で、自分が犯した罪を、どこかの人生で償わねばならないように出来ている。
そうした世界で、人生を生きているのだ、ということ。それがこの宇宙の摂理であり、神の摂理なのだ、ということですね。

厳しいようだけれども、シルバーバーチは、極悪非道な人間は、そう簡単に許されないぞ、と言っているわけではありません。
 

悪徳の 塊 のような犯罪者であっても、地上で聖人と仰がれる人間と同じように神と結ばれているのです。


そうした魂であっても、聖者が神と結ばれているように、心の奥深くでは神とつながっているのだ、という福音も、同時に述べてくれています。

つながっているからこそ、過ちをつぐなう機会が与えられ、改心をし、償いを実践して、神の元へ帰還することが許されている。
そうした大いなる神の愛のもとで、わたしたちは生かされているのだ、ということも教えてくれています。