仏教学者が瞑想に言及しなかったのはなぜか | あそんで暮らす![ニュートラル編]

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最近、中村元さんの情報を追ったりしています。

 

中村元さんは、インド哲学や初期仏教の第一人者です。

 

生前はテレビにもよく呼ばれていたようです。

 

それで、対談者が中村元さんに、

 

「在家信者(あるいは現代人)が仏教を実践する場合、どのように実践したらいいでしょうか? お釈迦様(あるいは当時の修行者)はどうおっしゃってたのでしょうか?」

 

と尋ねました。

 

生家を離れ、徹底的に修行に励む出家信者に対し、普通の暮らしをしながら仏教を実践する人たちを在家信者と呼びます。

 

現代人が仏教を実践する場合、当時の在家信者のあり方が参考になるのでは、という意図の質問だったと思います。

 

 

自分が仏教を勉強してた頃も、この「実践」が大事だと習ったので、興味深い質問でした。

 

もしかしたら、中村元さんの瞑想への見解を聞けるかもなぁという期待もありました。

 

しかし瞑想への言及はなく、お釈迦様の教えを日々の中で実践することだと思いますという、正直言うと、けっこう当たり障りのないお答えだなぁと思いました。

 

 

それでなぜ、このような答えになったのかを考えてみました。

(勝手に考えただけなので正解はわかりません。)

 

  1. 中村元さんは、お寺や教団の人ではなく、学問として仏教に携わっているから
  2. 当時(1990年代前後)はまだ、今ほど瞑想が浸透しておらず、特殊な修行と思われていたから
  3. 当時はオウム真理教などの存在もあり、誤解を避けるため
  4. 実践や悟りにおいて、瞑想は絶対条件ではないから
  5. 仏教は、誰もに開かれたものだと伝えたかったから

 

 

学問として携わってるので、信仰者のように、瞑想のような深いところへはあえて踏み込まなかったのかなぁ、というのが1番。

(学問としての客観性を保つため。)

 

瞑想の話ししても、みんなわからないだろうし、難しいし、誤解を生むかもしれないから控えられたのかなぁ、というのが2番。

(場合によっては危険だし。)

 

当時の文化はあまり詳しくないですが、もしかしたらオウムだけじゃなく、いろんな精神世界的な展開があって、仏教への誤解が生じそうな時代背景だったのかなぁというのが3番。

 

だけどなんとなく、4番5番あたりが本命ではないかと、勝手に想像してます。

(1から5まで全部勝手な想像なんだけど、すみません。)

 

 

初期仏教の後に出てくる大乗仏教は、すべての人に仏性があり、すべての人が救われて悟る可能性があるってスタンスなんです。

 

日本に入ってきてからもいろんな宗派に分かれて、その中でも、一般の衆生を救おうと考える宗派も多かったと思います。

 

衆生(大衆)を救うためには何が必要かというと、「簡単さ」じゃないかなと、最近思ったんです。

 

瞑想なんて、よっぽど関心を持てないとできないと思うんですよ、当時の人は。

 

それに実際、瞑想しなくても救われちゃう人とか、場合によっては悟れちゃう人もいると思うんですよね。

 

だから4番5番あたりが本命じゃないかなぁと。

 

 

自分は仏教の勉強してたとき、この大乗仏教的な、「衆生を救っていく」という話に、ぜんぜん興味持てなかったんですよね。

 

そんな道徳っぽい退屈な話じゃなく、もっと裏ワザ的なのを教えてくれよと思ってました。

 

 

だけど最近、この別け隔てなく「衆生を救っていく」というスタンスは素晴らしいし、もしかしたら覚醒めや悟りにとって合理的じゃないかと思うようになりました。

 

自分の悟りを求めつつも、他人や周囲のことも同時進行すると、視点がエゴ視点から離れられるのかもなぁとか。

 

エゴ視点から離れて、自分と他人を含めた衆生を上から俯瞰する。

 

つまりスピ的に言うと、ハイヤー視点になる、みたいな。

 

 

それでこの仏教のあり方って、今のスピにも通じるところがあるなぁと。

 

やっぱ多くの人の心を癒やしたり、覚醒めに誘導するには、「簡単さ」が大事なんだろうなぁと。

 

一部、私みたいにマニアックなところをごちゃごちゃ追求したくなるタイプもいるけど、多くの人は日々の目の前のことをやりつつ、覚醒めていくわけだから。

 

 

だから、スピは簡単なんだよ、今は誰もが覚醒められる時代なんだよと、ハードルを低く低くしてくれてるスピリチュアルリーダーの方たちは、この大乗仏教的な精神でそうおっしゃってるのかなぁと。

 

いくらでもマニアックになろうと思えばなれるんだけど、本当に簡単さを受け入れられたら、簡単に覚醒めることも可能なのかもしれないですね。

 

 

たとえばゲームでも、ガチであることにアイデンティティを感じてるガチゲーマーもいれば、任天堂Switchのような老若男女を問わない親しみやすいゲームもあり、それを楽しむ人もいて、それで多くの人をカバーできてる感じがあります。

 

仏教で対機説法って言葉がありますが、現代のスピリチュアルリーダーの方が、いろんな角度でいろんな情報を出されるのは、いろんなタイプの人がいるからなのかなぁとも思います。

 

仏教にしろ、スピにしろ、ゲームにしろ、マニアから(笑)一般ピーポーまで、多くをカバーできたらそれでいいのかもですね。

 

 

結局、中村元さんの真意はわかりませんし、ちゃんと仏典読んだら答えがあるのかもしれませんが、当時私は前の方の席で寝てたので、今頃こんな勝手な推測をしています。

 

だけど、中村元さんには、そんな広さと明るさを感じます。