”かもめ”


と聞いて、すぐに浅川マキを思う人はほとんどいないでしょうね。


「かもめ」という歌は、浅川マキの1969年7月発売のシングル「夜が明けたら」のB面で、詩:寺山修司作曲:山本幸三郎です。


♪「おいらの愛した女は、港町のあばずれ。いつも、

ドアを開けたままで着替えして、男たちの気を引く浮気女・・・」


その昔、好きだった女の子と新宿紀伊國屋の地下の喫茶店でデート中、突然彼女が「かもめ」を口ずさんだ・・・。


デートの最中に、突然、歌う曲でないことだけは確かで、なぜ?と聞いたら、浅川マキのライブに行かないかとの前振りだった。


もちろん行きました。生浅川マキはとても素敵で感激しましたが、なんとなく自分の居住まいが分からなく、居心地が悪いまま、飲めない酒に酔っぱらってしまった。


そんなわけで、デート自体も惨憺たる結果で、あまり思い出したくないのです。


今から思うに、浅川マキさんだったら、知ったかぶりの若造をつぶすことも、充分計算に入っている、確信犯なライブだった気がしていますよ!


とはいえ、浅川マキは、「こんな風に過ぎていくのなら」「あなたなしで」が大大大好きで、今でもi-podにもしっかり入っています。



この前ジムで重いものを上げている最中に突然かかって、脱力してしまいました(笑)

もう、貴女は天国に行ってしまったけれど、それもきっと確信犯ですよね(笑)

カラオケには「かもめ」もあるのですが、誰も知らないだろうと思って、歌うのを我慢しているのです。


そういえば、ちあきなおみが歌った「朝日のあたる家」は、あれは浅川マキバージョンです。もしCD化されているならば、作詞は浅川マキになっているのではないでしょうか。


浅川マキは今では大抵、カルメンマキの「時には母のない子のように」、森田童子「さよなら僕の友達」、石川セリ「八月の濡れた砂」などと一緒に、『暗い昭和の唄』という括りになっていますが、全員、音楽性も世界も全然違いますよ。


「かもめ」の詩は寺山修司作で、”港町のあばずれ”に恋した水夫の話です。


この恋が実らなさそうなことは、設定からして大体想像がつきますが、実らないだけではなく、破滅的な結末を迎えてしまいます。


劇作家、寺山修司ならではの名曲です。


「ところがある夜突然、成り上がり男がふいに、薔薇を両手いっぱいに抱きかかえて、ほろ酔いで女のドアを叩いた・・・」


おいら君。お前は水夫のくせに、陸(おか)に上がって金がねえってことはねーだろ?

ところが、今も昔も、本気で恋してしまうとアプローチの仕方が分からなくなるものなんですねー。

ぐじゃぐじゃ余計なことを考えているうちに、ほら!ぐずぐずしてるから、他の男に奪われちまった!


「女の枕元にゃ、薔薇の花が匂って、二人、抱き合ってベッドにいるのかと思うと

・・・おいらの心はまっくらくらー」


18歳の俺はあまりにガキで、実は、この「心がまっくらくら」ということが、自分の感覚として、理解できなかったのです。


もちろん嫉妬だということは想像できますが、生意気なガキだったもので、そもそも、そんな女に恋するから自業自得だ・・・くらいにしか思っていなかったのです。


ところがなんと、その後の人生で、『おいらの心はまっくらくら・・・』を、一体、何度体験したことか!


年を取るほどに、このまっくらくらに耐性が無いことに気づき、さらに心はまっくらくらになってしまうのです。


俺だけでしょうか?いやいや、45年も前の曲ですからね、人の心ってこんなものなんでしょう。寺山修司の偉大さにふと気づいた俺でした。


浅川マキさんもね。お二人ともに、偉大な確信犯だったのだと思います。


かもめ、かもめ、、、笑っておっくれー

かもめ、かもめ、、、さよなら、あばよ

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今東光(こんとうこう 1897年生-1977年没)は、天台宗の大僧正で、直木賞作家、参議院議員でもありました。


本書は、1975年-1977年までの晩年に、週刊プレイボーイ(集英社)で連載された、読者からのお悩み相談コーナー「極道辻説法」をまとめた単行本です。


今東光の回答は、あまりに毒舌で、カウンセラー的にはびっくりしてしまいますが、よく読むと、大僧正の回答は非常に的確で、しかも、迷いがないことが分かります。


質問者は、二十歳前後の男性が多いですが、それぞれが直面している問題は、その後の男の人生に関わるものが多く、大僧正の生き方にそぐわないものに対しては、「馬鹿野郎!」と一喝します。


ちょっと内容を紹介します。


ケース1

17歳男子高校生


Q:同じクラスのA子の家の前を通った時、風呂に入っているA子の裸体が見えてしまった。A子のことは以前から好きだったが、これを機にA子に対して性欲が芽生えて、ヤりたくて仕方がない。この気持ちを打ち明けて、A子とヤりたい!どうしよう???


A:以下、大僧正のお答えからの抜粋です。


「まだ子どもで、どこへどう突っ込むかもわからねえくせしやがって。そんな冒険を考えるより、家でおとなしくマスかいていればいい。朝に晩にせっせとかいてろ。で、勉強しろ。告白なんぞ絶対にするな。」


ケース2

18歳 男性


Q:彼女にたまに会うけど、いつも不安を与えてしまう。俺がキスしたいなんて思ってるせいか、知らない間に言葉や態度に出てしまう。どうやって不安を与えずに、彼女にキスができるだろうか?


A:大僧正のお言葉(抜粋)


「てめえがやましい根性を持ってるからだ。責任の所在を明らかにして彼女の気持ちを開かせることだ。タダマンをやろうと思ってるからダメなんだ、こん畜生め!」


もう、全く大僧正のいう通りです!


言葉って、特に日本語は、ものすごい種類のニュアンスがあって、カウンセラーをやってると、本当にいちいち表現には気を使うものですが、そんなの、クソくらえってな感じです。これを痛快と言わず、なんというでしょう?


すべてがこんなのではありません。大僧正のお言葉には、心から共感しただけではなく、俺が直面している問題にも、答えをくれたものがありました。


ケース3

年齢不詳 男性


A:なぜ自分は存在するのか。

いったいなんで、おれはいるのか?なんで地球があるのか?実際あるものをどうこう考えるのはつまらないことなのか?神、仏をぬきにして教えてくれ。


Q:大僧正のお言葉(抜粋)


「なぜてめえがいるかだって?

だったら、じーっと座ってチンポコ見てろ!何時間でも覗いているうちにハッと気がついて、あるべきものはあるべきなんだ、ということに気づくだろう。


坊主は坊主のあるべきように、女は女のあるべきように、それぞれ自然のあるがままの姿がいいんだから。てめえはてめえのあるべきように、チンポはチンポのあるべきように、というのをよく見定めて、のべつまくなし見てろ!」


まあ、”チンポ”のことはさておいて、あるべきものはあるべくして存在するというのは、禅の教えです。


俺のおじいちゃんは、大僧正とだいたい同じ年齢で、同じころ亡くなりましたが、寝室に下げられていた南部風鈴の短冊に、おじいちゃん自らの手書きの達筆で、「空即是色」と書いてありました。


高校生だった俺は、その短冊が揺れているのを見て、おじいちゃんにとって「色」とは何だろう?と、思いました。


80才近くにもなって、まだそんなことを言っているのかと、少しだけがっかりしたのですが、この大僧正のお言葉を見るにつけ、なんとなく、何が言いたかったのかが分かったような気がしました。


「空即是色」と風鈴に書く意味が分かったのではなく、高校生だった俺が、「色=チンポ」としか考えられない、馬鹿野郎だったと分かったのです。


あ、馬鹿野郎だったじゃなくて、未だ、馬鹿野郎かも知れません。


おじいちゃんが亡くなった後、風鈴が風に吹かれてチリリンと鳴っていたのを思い出します。


この本は、また何年かして、自分の人生に行き詰ったら読もうと思っています。

もう一つ、素晴らしいお言葉を発見したからです。


それは、「仮に、相手を殺さなくては自分が生存しないという、極限の状況下におかれた場合、相手が恋人だったらどうするか?」という質問の回答です。


「俺はどんなに惚れた相手でも、楽に死なせてやるね。それで俺は大いに生きる。絶対に俺は生きなくちゃいかんという一つの使命感を持っているんだ」


とてもそんな使命感が、自分にあるとは思えません。

しかも、この大僧正の回答は、きっと確信犯です。


心底、勝てないと思いました。勝負を挑もうなんてことがおこがましいですし、そんなセリフが言える日が来る気もしません。でも、もしかしたら、自分のおじいちゃんのようになら、生きられるかもしれない。


・・・いや、まだまだ、所詮は自分のチンポを眺めるくらいが精いっぱいです。


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ベルナルド・ベルトルッチ監督は「ラストエンペラー」で世界的名声を得て、巨匠と呼ばれる映画監督になりましたから、映画ファンならずとも名前はご存じでしょう。


「ルナ(La Luna)=イタリア語で月の意味」は、1979年のアメリカ・イタリア合作映画で、日本公開は1980年4月です。




「ルナ」は、母と息子の近親相姦を描いた作品ということで、公開時にはかなりスキャンダラスでしたが、その後、ほとんど目にするこ
とはなく、長い間、幻の映画でした。


2013年にやっとDVDが日本で発売されたのは、とても嬉しいことですが、前回書いた「ナッシュビル」のように、再販はないかもしれません。ファンなら必ず買いましょう!


なぜなら、これは名作だからです。


ベルトルッチ監督の映画はすべて観ましたが、彼の初期の「暗殺のオペラ(1970年)」とこの「ルナ」は、どちらも素晴らしい傑作です。この2作を彼のマスターピースというと、ほとんどの方に異論があると思いますが、俺的には、この2作は、特にルナは、俺の映画史のベスト5に入ります。


これを書くのに、確かめたいことがあって見始めたら、また全編見てしまった。そして、一人だったので、思い切り泣いてしまいました


公開当時、銀座みゆき座でも泣いてしまったことを思い出しました。この映画で泣くと、なんか俺の生い立ちや、母との関係に問題があったように思われそうで、突然現実に戻り、逃げるように立ち去ったのを覚えています。ないですよ。ご心配なく。




映画は、ローマ郊外の海辺の自宅で、子どもが恐らく1歳の時から始まります。


ある昼下がり。


海に面した家のテラスで、1歳の子どもが素っ裸で、はちみつで身体をべたべたにして、むせて咳き込んでしまいます。


母はあやしながら、子どもの手に垂れたはちみつを舐めてきれいにします。


親父は、海で釣った魚を持ち帰り、テラスの塀に腰かけて、魚を開きながら、そんな母子を微笑みながら見ています。


愛情に満ちた平和な昼下がり。


ヘリコプターが上空を飛んでいきました。


家には親父の母親が同居しています。彼女はリビングでピアノを弾いています。これが、映画のテーマ曲です。母親は、姑を完全に無視して、姑のピアノをかき消すかのように、レコードで流行歌をかけ、親父と踊り始めます。

海辺のむきだしの太陽を逆光に、楽しげにスイングを踊り続ける2人。


親父は手に魚を持ったまま踊っていますが、逆光なので魚がナイフに見えます。姑との確執も感じ、幸せな風景とは違和感のある緊張感があります。


海辺の家の背後には、少し変わった形をした山がそびえています。


場面変わって、夜、山からは見事な満月が登っています。


母は1歳の息子を自転車のかごに入れて家出します。母は静かに泣きながら自転車をこいでいます。息子は無邪気に笑っていました。


ここで初めて、映画のタイトルが出ます。





さて、息子を連れて、夫と姑を捨て去った母は、ニューヨークに移住して、すぐに新しい男と結婚し、自分はオペラの世界的な大スター、プリマドンナになりました。


時は経ち、1歳だった息子は、現在15歳です。


イタリアでの記憶は全く持っておらず、アメリカ人の父親を本当の親父だと信じていますが、その育ての父親が、ある朝、突然、心臓発作で亡くなってしまいます。


傷心の母は息子を連れて、オペラ発祥の地、イタリアに移住します。


思春期まっただ中の息子は、父を失った喪失感と、環境の激変について行けず、ローマの不良達と付き合うようになり、ついにヘロイン中毒になってしまいます。


母親は息子を更正させようと、恐らく初めて息子と真剣に向き合いますが、現実的に対処することが全くできません。


ついに、母親は、息子の出生の秘密を打ち明けて、最初の結婚相手である息子の実の父親に、息子を対面させるというストーリーです。


映画は140分の長尺ですが、映画も後半で、息子は初めて実の親父と対面します。


息子の方は、実の親父だと分かって会いに行きますが、親父の方は自分の息子だとは気づきません。


息子はついに名乗りを上げないまま、親父と一旦別れて、親父の自宅まで彼の後をつけます。


そこが、映画冒頭の、息子の生家でした。


海岸沿いの道には、特徴のある山がそびえています。

母親が親父を捨てた日、満月が昇っていた、あの山です。


15年ぶりに見た自分の本当のふるさとの山。そして自分の生家。


その家は、まるで時間が止まったかのようでした。


15年前と全く同じたたずまい。おばあちゃんも健在です。あの日と同じように毛糸を編み、同じ曲をピアノで弾いています。


息子は1歳の時の記憶がよみがえったのでしょうか?映画冒頭の夏の午後を思い出したでしょうか?


映画は一切そこには触れていません。


以前このブログで書きましたが、人は1歳の時の記憶は失われることになっています。


幼児健忘症といって、人の脳の正常な発達には欠かせない記憶喪失です。つまり、息子には、生家での記憶は完全に失われてしまっているはずです。


ところが、その時、上空をセスナ機が飛んでいきます。


この映画の素晴らしい演出の一つです。


そうです。あの時、上空をヘリコプターが飛んでいました。


息子はすべてを理解したことでしょう。


思春期にあって、ヘロイン中毒になるほどに、自己のアイデンティティを失っていた彼にとって、ここに戻って来ることが、いかに大切なことだったかが分かります。


「ルナ」は、男の人生の「過去への回帰」がテーマです。


人はやはり、自分がどこから来たかを、ちゃんと知る必要があるのです。


息子が親父と再会してからは、映画のクライマックスです。


この親父は本当にいい。台詞はあまりありませんが、男としての強さも弱さも、すべてが表現されて、心を揺さぶられるものがあります。


これ以上、ストーリのことは書きません。


発達心理学者のいう幼児健忘症(脳は正常な発達過程において、3歳以前の記憶を失う)は、これは真実なのでしょうか?


じつのところ真実とは思えません。


最初の記憶は、きっと深層心理には永遠に刻まれており、さまざまな形を変えて、折に触れ、突然表出するのだと思うからです。


それは、プロペラの音だったり、流行歌だったり、はちみつのべたつきだったり。


時に、甘く。時に、悲しく。


失われた記憶とは、もしかしたら母の子宮までに及ぶのかも知れません。


そして、もっと以前の、母の中に入った親父と、その親父の母親にまで。


満月を見る時に、人は自分の過去への回帰を見ているのかも知れません。


母子の近親相姦は、このテーマの象徴の一つにすぎません。確かに近親相姦はスキャンダラスですが、そればかりを言及する多くの人は、目は節穴。一体、何を観てたんだろうと思いますね。


ベルトルッチ監督は、「ルナ」を製作する前、何かのインタビューで、過去形のSF(サイエンスフィクション)を作りたいと言ったことがあります。


「過去形のSF」とは一体どういうことか、当時、「暗殺のオペラ」に嵌っていた俺はずいぶん考えましたが、ふと、この「ルナ」が、そうだったのかも知れないと思いました。


最後に。


この映画では、ヴェルディのオペラが演出として多用されています。特に、「トロバトーレ」と「仮面舞踏会」は、実際に母の出演するオペラの舞台シーンとして使用されて、非常に重要です。


特に、映画のラストシーンは、ローマの野外劇場で、母親の演じる「仮面舞踏会」のリハーサルが使用されるからです。


オペラ「仮面舞踏会」のストーリーは映画とは関係ありませんが、このオペラシーンを知っておいた方が、映画が楽しめます。


少し仮面舞踏会の話をすると、オペラの主役である領主は、厚い忠誠心と男同士の友情で結ばれた家臣の妻(プリマドンナ)を愛してしまい、その代償として、家臣から暗殺されてしまうストーリーです。


映画のラストシーンは、この暗殺の場面です。つまり、オペラ「仮面舞踏会」のラストシーンが、映画のラストシーンと同時に進行するのです。


暗殺は華やかな仮面舞踏会の最中に行われます。


嫉妬と復讐心に狂った家臣は、ナイフを1突き、領主の胸に突き立てます。


愛した女性の前で、息絶える領主。


しかし領主は、絶命する前に、息もたえだえに、自分を含めてすべての人を許します。


死にゆく領主を、まるで神の領域にまで高める、この世のものとは思えない美しいコーラスの中で。


母親演じる家臣の妻(プリマドンナ)は、自分のあやまちを嘆きながらも、心からの叫びでこのドラマに救済を与えるのです。


そこで映画「ルナ」はエンドタイトルを迎えます。


そのオペラ場面で、何が起こったかは、是非、映画を観て、ご自分で体験してください!


オペラ「仮面舞踏会」のシーンを事前に知っておけば、「ルナ」は100倍感動することでしょう。


俺のように、涙なくしては見られないと思いますよ!




※もし、ヴェルディの「仮面舞踏会」を聴いてみようかなと思われる方は、画像のものをお勧めします。ドイツ・グラモフォン社、クラウディオ・アッバード指揮のものです。間違いなく、これまでCD化された「仮面舞踏会」のなかで、最高傑作だと思います。どうせ聴くなら、最高のものを。


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