本日は,続日本紀の761年(天平宝字5年)の第4回目,10月10日の条から始めましょう。
本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P273からです。
【10月10日】
従五位上の上毛野公広浜,外従五位下の広田連小床および六位以下の官人六人を遣わして,遣唐使の船四隻を安芸国で建造させた。
東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海などの諸道に命じて,牛の角七千八百隻を貢上させた。
安芸は,現在の広島県の西側半分です。
五畿七道については,過去記事に掲載していますので,そちらを参照してください。
(図は広島ホームテレビHPより拝借しました。)
さて,なんで牛の角を集めるかというと,兵器(弓)の材料として,唐の皇帝から送ってほしいと頼まれたからです。
当時の唐は,安禄山の乱平定で,大量の兵器が消費されておりました。
現在も,中国青海省のチベット自治区では,伝統的な牛角弓が作られているようです(AFP通信記事)。
転載はいたしませんが,牛角弓で検索すると中国内の動画サイトで制作風景が紹介されています。
(よく教科書に乗っている図,この蒙古兵が持っている弓は牛の角でできています。)
【10月11日】
… また大師(恵美押勝)に稲百万束を賜わった。三品の船親王・池田親王にそれぞれ十万束,正三位石川朝臣年足・文室真人浄三にそれぞれ四万束,二品の井上内親王に十万束,四品の飛鳥田内親王・正三位の県犬養夫人(聖武の夫人広刀自)・粟田女王・陽侯女王にそれぞれ四万束である。都を保良に移すためである。
【10月13日】
天皇は保良宮に行幸した。
【10月28日】
平城宮を改造するために,しばらく近江国保良宮に移る。このため近江国司の史生以上で,近江遷幸に奉仕する者,ならびに造宮使の藤原朝臣田麻呂らに位階を昇進させ,郡司には物を賜わる。当国の人民や左右京・大和・和泉・山背などの国の今年の田租を免ずる。
また天平宝字五年十月二十八日の夜明け以前の,近江国内の各種の犯罪人で,死罪以下のものは,みなことごとく赦免せよ。
この日、天皇は次のように勅した。
… そこで都(北京)に近い二郡(滋賀郡・栗太郡)を永久に畿県(畿内と同じ扱い)として庸を停止して調を納めさせるようにする。
保良宮については,759年11月16日の条で,淳仁天皇から建設の指示があり,そこから2年間が経過しております。(その際の記事はこちら。)
保良宮の場所は琵琶湖の南端ですね。
(画像はこちらから拝借)
淳仁天皇は,遷都にあたり,貴族・官僚・地元住民に対し,様々な「贈り物」をしています。
まず,皇族や貴族達には,都造営への協力の見返りとして,直接稲を下賜しています。
「束」は穎稲(稲穂のままの状態の稲)の単位で,穎稲1束は籾米1斗と換算されました。
1斗は現代ではおおよそ18リットルですが,奈良時代ではおおよそ7.2リットルと考えられています(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』)。
つまり,恵美押勝に与えられた100万束の穎稲は,100万斗=720万リットル=現代の1斗缶(18リットル)で40万個分!にもなります。
また,近江(滋賀郡・粟田郡)も,税制上畿内と同じ扱いとし,さらに恩赦を実施します。
おそらく,遷都によりおいてかれる平城京の住民を慰撫するために,近江・畿内の今年の田租を免除しています。
仮に,現代日本で東京一極集中を是正し,中央官庁を各地にバラけさせるといったことをやる場合には,その近辺の地価等が下がり,飲食店なども影響を受けるでしょう。
当時の大和朝廷も,このような支援策をせざるを得なかったのでしょう。
【11月17日】
四位下の藤原恵美朝臣朝福を東海道節度使に任じ,正五位下の百済朝臣足人と従五位上の田中朝臣多太麻呂を副とした。 … 任務は船百五十二隻・兵士一万五千七百人・子弟(郡司の子弟か)七十八人・水手七千五百二十人を徴発し検査して決める。その数の内二千四百人は肥前国,二百人は対馬嶋から取る。
従三位の百済王敬福を南海道節度使に任じた。従五位上の藤原朝臣田麻呂と従五位下の 小野朝臣石根を副とした。 … 船百二十一隻,兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検査して決める。
正四位下の吉備朝臣真備を西海道節度使に任じた。従五位上の多治比真人土作と佐伯宿禰美濃麻呂を副とした。 … 船百二十一隻,兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検査して決める。兵士らには皆三年間田租を免除し,ことごとく弓馬の訓練をし,五行の陣立てを調練して習得させる。
着々と,新羅との戦争準備を進めていますね。
船は合計394隻,兵士は43,400人,水手は17,360人,この人数を全国からかき集めています。
「五行の陣立て」は調べてみましたが,『五行説に基づく陣立て。地形に応じて、方・円・曲・直・鋭の五つの陣形をしく(コトバンク)』とだけで,詳細はわかりませんでした。
(陰陽)五行説は,こちらの図を見てもらうのが一番わかりやすい。
(画像はこちらのサイト様から拝借しました)
今回で,761年の説明は終わりです。