続きを読みましょう,ときは759年,淳仁天皇の治世2年目です。
【9月19日】
船500艘を造ることになった。北陸道諸国に89艘,山陰道諸国に145艘,山陽道諸国に161艘,南海道諸国に105艘で,いずれも農閑期をえらんで営造し,3年以内に完成させることとした。新羅を征討させるためである。
前回に続き,新羅征討の準備に入ります。太宰府の陳情にあった船不足解消策でしょう。
南海道は四国+和歌山あたりですが,これは図を見てもらいましょう。
今回は,「中学生のためのよくわかる歴史」から拝借しました,大人が見ても十分勉強になりますよ。
畿内は,大和・河内・摂津・山城・和泉の5カ国で構成されます。だから五畿といいます。
畿内は天皇の直轄地であり,この五カ国は度々租税が免除されるなど,他国とは扱いが違っています。
【9月26日】
去年から陸奥の国境警備のために,桃生城・雄勝城の建築工事に携わった8188人に対し,出挙の利子を免除しています。
まぁ,これくらいは,ね?
【9月27日】
また,坂東八国と越前・越中・越後・能登4カ国の浮浪人2000人を雄勝城に移住させます。
かなりの人数が,東北に送り込まれていますね。
【10月18日】
唐の緊迫する情勢を踏まえ,朝廷は遣唐使として唐に渡っていた藤原清河らを迎えに,総勢99名の使節を渤海経由で派遣します。
通常の遣唐使は,四艘で各船に100名乗っていたため,今回の派遣はかなり小規模になります。
渤海に着くと,安史の乱がまだ平定されていないことから,大人数でいくのは危険だと判断した渤海側が,遣唐使から11名のみを入唐させ,残りは日本に帰国させます。
日本に帰った遣唐使一行は,帰路暴風雨にあい,対馬に漂着してしまいます。
【11月2日】
前回,8月下旬に九州地方で台風被害が発生したという記事をご紹介しましたが,10月にも台風被害が発生したようです。
この当時の建物だから,勢力の強い台風に合えばひとたまりもないでしょう。
そこで,被災者に対して,田租を免除する詔勅が布告されました。
あわせて,その翌々日には,藤原仲麻呂以下百官の役人に至るまで,台風被害の見舞いとして絁・真綿を下賜しています。
本当に,隙きあれば藤原家に貢ぎますね,この天皇は。
この当時の褒美は,おもに絹織物や綿などです。
よく,褒美として支給される絁(あしぎぬ)は,悪しき絹の略で,通常の絹織物よりも太い糸で織られています。
【11月9日】
朝廷は,坂東八国に以下の詔勅を出します。
「陸奥国にもし緊急のことがあって,援軍を求めてくれば,国毎に二千人以下の兵を徴発し,国司の中ですぐれて強い者一人を択び,部隊を率いさせ,すみやかに救援させよ」
朝廷が東北防備を急いでいることを見ると,この時代に蝦夷の反乱が頻発するなどあったのでしょうか?
桃生城・雄勝城の築城に,俘囚の移住政策,武器の運び入れに加え,今回は坂東八国への郡司支援命令と,相当矢継ぎ早に手を回してますね。
【11月16日】
この日,役人数人に,近江国に出向いて新たな宮殿を建てるよう指示します。
この宮は,現大津市石山の洞神社あたりにあったので,保良宮といいました。
ちなみにと言ってはなんですが,藤原仲麻呂は近江守を兼任していましたから,淳仁天皇は藤原氏の根拠地に新たに皇居を建てようとしたわけです。
どこまでべったりなんでしょうか。
【11月30日】
また,藤原仲麻呂関連では,以下の詔勅も出しています。
「大保(右大臣)従二位の藤原恵美朝臣押勝に帯刀資人を二十人増員する」
帯刀資人(たちはきとねり)は,読んで字のごとく,帯刀して用心を守るボディガードのようなものですが,これらを引き連れて歩くのはステータスでもありました。
いまでも似たようなものです。
これも,淳仁天皇から藤原仲麻呂への「貢物」です。
即位当初から藤原仲麻呂べったりでしたが,徐々に見境がなくなってきてますね。
759年の記載は今回で最後になります。
淳仁天皇と藤原仲麻呂のただならぬ関係が不穏な空気を生んでいく様子が続日本紀の記述からうかがわれます。