前回は,宗教という観点から,760年の2つの条を取り上げました。
続きを読んでいきましょう。
【8月7日】
先朝の太政大臣の藤原朝臣不比等は,ただその功績が天下に高いだけでなく,皇室の外戚でもある。このため先朝(元正朝)に正一位太政大臣を贈られた。これはまことに,わが国の令によって最高の官位を極めているのであるが,『周礼』によると,まだ不足していることがある。・・・ 今から近江国の十二郡に封じて,不比等を淡海公とする(唐の封爵の制にならった名目の称号で,これを領有したのではない)。ほかの官はもとのままとする。
藤原不比等がその功績とともに皇室の外戚ということも加味し,官位の最上位の更に上をもうけ,これを授けると。
いよいよ,天皇自ら,藤原家優遇を隠そうともしなくなってきました。
リーダーが特定の部下を重用し,まるでどちらの立場が上かわからない状況になってしまえば,ますます臣下は離れていきます。
【8月22日】
新京(保良宮)の大小の寺院・僧綱や大尼・神主たち,百官の主典以上の者に,地位に応じて新銭を賜わった。
保良宮は,前年に造営の始まった新しい宮殿で,藤原仲麻呂の本拠地である近江にありました。
上記の『淡海公』追贈も,新京が藤原家縁の地であることを周囲に示したい藤原仲麻呂の策略とみていいでしょう。
淳仁天皇にしても,藤原家の支えがあって初めて皇位を維持できることを理解していたのでしょう。
これでもかとばかりに藤原家の権威に寄りかかろうとしています。
【9月16日】
この日,新羅からの使いが来朝します。
新羅との外交関係は非常に悪化しており,大使派遣はしばらく途絶えていました。
前年より,新羅侵攻の準備も進められてきました。
759年6月18日の条では,行軍にかかる規則づくりがなされたり,
759年9月19日の条にあるように,船の準備を進めたり,
と,やる気満々です。
新羅との外交関係を振り返ると・・・
752年(天平勝宝4年),大使として来朝した新羅国の王子に対し孝謙天皇が以下の通り述べています。
・・・ 前国王の承慶(孝成王)や大夫の思恭らは言行が怠慢で,常に守るべき礼儀を失ってきた。そこで使者を派遣して,罪を責めようと思っている間に,今度,新羅王の軒英は,以前の過ちを悔いて,みずから来朝したいとこいねがったが,国政を顧みなければならぬので,そのため王子泰廉を遣わして代りに入朝させ,兼ねて御調を貢進するという。朕はこれを聞き大へん嬉しくよろこばしく,使者に位をおくり物を賜わる。
これから後は,国王がみずから来朝して,直接ことばで奏上するように。もし代りの人を派遣して入朝するのであれば,必ず上奏文を持参するように。
柵封体制下では,臣下である国王が皇帝に使いを出す場合には,必ずお手紙を書き,偽造防止のためにハンコを押します。
このハンコ(印)と組紐(綬)の下賜が柵封を受ける際の儀礼になります。
卑弥呼や武王が中華皇帝から贈られた金印にはそういった意味があります。
だから,孝謙天皇も,新羅国王に対して,臣下のあなたが挨拶に来れないなら,せめてお手紙書けや,とこう言ってるわけです。
日本は,新羅に臣従を求めていることになります。
大和朝廷は,同じことを,同年来朝した渤海大使にも求めていますね。
その翌年の753年(天平勝宝5年)に,新羅国に小野田守を派遣します。
ただ,小野田守の帰朝報告も,新羅との外交的なやりとりも,続日本紀には一切記載されていません。
おそらく,新羅国は臣従を求める日本大使を追い返したのでしょう。
こういった日本に都合の悪いことは史書に残ってませんね,韓国側の史書にはどう書かれているのでしょうか。
ここまでの流れを踏まえた上で,760年の新羅国大使とのやり取りを見てみましょう。
まず,日本側の役人が,新羅の大使に対し来朝理由を確認します。
新羅側の大使は序列第9位の役人のようです。
朝貢をしないまま久しい年月がたちました。このため本国の王が御調をもたらして貢進させたのであります。また貴朝の風俗・言語をわかるものがおりませんので,貴国の言語をこれから学ぶ者二人を遣わします。
と,新羅は下手に出てきました。
これに対し,日本側の役人は以下の通り対応します。
およそ玉や絹織物を持参して天子に献上し,謁見を乞うことは,本来忠義で誠実な心にそい,礼にかなった正しい行ないを通じるためである。ところが新羅は今日まで言葉が信用できず,また礼儀を欠いている。・・・ その後,小野田守を派遣した時(天平勝宝五年)は,彼の国は礼を失した。そのため田守は使者の任務を果さないで帰還した。王子ですら信を守らないのに,まして身分の低い使いではどうして頼りにすることができようか。
来朝した新羅王子が臣従するといったにもかかわらず,翌年派遣した日本国大使を追い返すとは何事か,と問い詰めた。
これに対し,新羅大使は,
田守が参りました時は,私は都から出て地方官になっておりました。また私は身分が賤 しいので,細かい事情はわかりません。
と抗弁しました。
つまり,この時の新羅の対応は日本側から見るとこういうように映ったと思います。
「過去の外交儀礼の欠礼? よくわかんないんだけど,そんな昔のことは水に流しましょうよ。 上表文持ってきたか? え? なんすかそれ? そんなの必要ないですよね? 友達だし。 お前は何者かって? いや,新羅の下級役人ですけど。 新羅王の代理か? 一応代理っちゃ代理ですね,問題あります? とりあえず与ってきたプレゼント持ってきたんでおいてきますね」
これに対し,日本側の役人は,こう答えます。
・・・ 使者が身分が低いので賓客として待遇することができない。これから帰国して,汝の本国に事情を報告せよ。責任をもって応待のできる人,誠意のある礼儀,旧来通りの調,明確な根拠のある言葉,この四者が備わったならば,それから来朝すべきである。
そりゃー,当時の外交常識からすれば,こんな舐め腐った対応を採れば追い返されますわ。
まさに,これですね。
日本も,聖徳太子のときに隋の煬帝相手に同じようなことやりましたが,少なくとも訪問前に関係が悪化してはいなかったし,きちんとした国書も携行していました(その内容が,まぁ,皇帝のお気に召さない内容ではあったのですが)。
この時の新羅からすると,渤海と戦争になった際に,日本側に背後から突かれるとひとたまりもないため,日本側との外交関係を繋ぎ止めておきたいはずです。
それからすると,この対応はあまりにひどいですね。
これなら大使を派遣しないほうがまだ良かったのでは。
現代にも通じるところがありますが,外交関係は過去のやり取りの積み重ねであって,約束を守ることがいかに重要であるか,ということを朝鮮半島の政治家は理解していないですね。
徴用工問題や明治産業遺産の世界遺産認定の件,GSOMIAなどの顛末を見ても,とりあえず要求してみて通ればラッキー,それを通すためにはその場しのぎで吐く嘘もOK,とでも思っているような節がありますよね。