続きを読みましょう。

 

 

【3月26日】

 上野国が飢饉になったので,物を恵み与えた。

 伊勢・近江・美濃・若狭・伯耆・石見・播磨・備中・備後・安芸・周防・紀伊・淡路・讃岐・伊予の十五ヵ国に疫病がはやったので,物を恵み与えた。

 

【4月27日】

 志摩国に疫病がはやったので物を恵み与えた。 

 

 

 疫病や飢饉に関する記述は,続日本紀の中に頻繁に見られます。

 これだけでは,どのような疫病が流行ったのかはよくわからないけども,聖武天皇の時代には天然痘やはしかが流行っていたし,この当時は渤海との交流が行われていたから,渤海経由で新たな伝染病が流通したのかもしれません。

 

 奈良時代は,私達が想像するよりもずっとグローバルな交流が行われていました。

 本シリーズでもご紹介したとおり,渤海や新羅,唐との間には使節の往来がありましたし,大陸の先進仏教を学ぼうと,唐・朝鮮・インドから僧侶を招いていました。

 

 奈良の大仏の開眼供養をしたのはインド人の僧侶だったかと思います。

 鑑真も渡来僧の一人ですね,鑑真は前年の759年に唐招提寺を建立しています。

 

 

 疫病や飢饉に対して,朝廷が取った対策は,

 

 ① 救援物資の提供

 ② 医師の派遣,薬の提供

 ③ 租税免除

 

 が主だったものです。

 持続化給付金の支給や災害公営住宅の提供,クラスター対策版の派遣にワクチン開発など,これも現代のコロナ対策で政府がやっていることとそう違いはないでしょう。

 

 

 

【4月28日】

 

 この日,新羅から帰化した131人を武蔵国に定住させます。

 758年8月24日のにも記載がありましたね。

 

 

 この地には,高麗神社や高麗川など,朝鮮ゆかりの地名が多々見られます。

 行政区名でも「高麗郡」が設置されていました,現在の日高市と飯能市の一部地域にあたります。

 

 

 

【5月9日】

 

 宮廷の官僚の中には,公然と政務を非難する者も出てきたようです。

 

 右大舎人大允・正六位下の大伴宿禰上足は,災いごと十ヵ条を記し,人々の間に伝え広めていたので、多褹島の掾に左遷された。告発した人である上足の弟の矢代は但馬目に任じられた。

 

 

 こういうのを見ても,当時の淳仁天皇・恵美押勝(藤原仲麻呂)の政治体制に対する,官僚の不満が蓄積していたことがわかります。

 

 ちなみに,多褹島と書いて「たねのしま」と読み,これは現在の種子島を指します。

 

 

 

【6月7日】

 

 この日,光明皇太后が崩御しました。享年60歳でした。

 光明皇太后の事績については,以前の記事で紹介しましたが,おなじ内容が続日本紀にも紹介されています。 

 

 

 おそらく,当時の朝廷内で,淳仁天皇と孝謙上皇の微妙なパワーバランスが保たれていたのは光明皇太后の存在が大きかったと思われます。

 

 なぜなら,淳仁天皇が重用する藤原仲麻呂の後ろ盾になっていたのは光明皇太后でしたし,皇統が淳仁天皇の系譜に移る事に対し穏やかならぬ孝謙上皇も母親の光明皇太后の手前,表立って淳仁天皇(および藤原仲麻呂)と対立はできなかったと思われます。

 

 光明皇太后という朝廷政治の実力者がなくなると,必ず政治が乱れ,クーデターや粛清の嵐が吹き荒れます。

 

 前回の橘奈良麻呂の乱も,つまるところ,聖武天皇崩御後の皇位継承問題に端を発した,橘家vs藤原家の朝廷政治の主導権争いだったわけです。

 

 この後,朝廷政治にどのような嵐が吹き荒れるか,それは次回以降に取り上げたいと思います。