【8月9日】

 淳仁天皇は,聖武天皇の事績を顕彰し,史書に「勝宝感神聖武皇帝」と記名し,天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)という諡号を献上しました。

 

 聖武天皇といえば奈良の大仏建立ですが,当初仏像完成時にはこれに塗る金が不足していた。

 どうしようかと悩んでいるちょうどその時,陸奥国で金が産出,献上されることになったのですが,これは聖武天皇が深く仏教に帰依したために「金を出現させられた」と考えられていたわけです。

 

 もう一つ,聖武天皇の事績として,藤原広嗣の乱について武力衝突に陥らずに鎮圧できたことを取り上げています。

 737年に藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで天然痘に罹って死にます。

 これ以降,橘諸兄・吉備真備・僧玄昉らが政治の実権を握り,藤原氏は排除されていきますが,この流れの中で起きたのが藤原広嗣の乱です。」

 

 また,草壁皇子にも「岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)」の尊号が追贈されています。

 

 草壁皇子は662年~689年の飛鳥時代の皇族で,天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子で,早世したため天皇に即位はしませんでした。

 草壁皇子は文武天皇の父親であり,したがって聖武天皇の祖父に当たることから,天武朝の家計の中では嫡流にあたるわけです。

 

 なぜ,淳仁天皇が尊号追贈を行ったのか。

 淳仁天皇の父親は草壁皇子の兄弟の舎人親王だから,淳仁天皇から見れば草壁皇子はおじさんに当たり,家系としては別系譜になる。

 そうなると,別系譜の先代天皇を敬う態度を示すことは朝廷政治を円滑に執行し,朝廷内融和を図るためには重要だったのでしょう。

 そもそも,聖武天皇の遺言では,天皇に即位するのは道祖王でしたから,まだこの時点で即位に対する反対派も宮中に相当数存在したのではないでしょうか。

 

【8月18日】

 陰陽寮が,来年は三合(大歳・太陰・客気の三神が合わさる年で,陰陽道でいうところの厄年)にあたるため,摩訶般若波羅蜜多経を読誦するよう奏上し,天皇より日々般若経の読誦するよう天下諸国に布告されました。

 

 大乗仏教において,菩薩が涅槃に至るための6つの徳目(修行)を六波羅蜜といいます。

 6つとは,布施・持戒・忍辱・精進・禅定,そして知恵で,この智慧のことを般若(サンスクリット語のパンニャーの音写)といいます。

 そして般若心経に,大乗仏教がいう智慧とはなにかが述べられており,それが「空」である,ということです。

 

 このあたりも,別に項目を設け取り上げていきたいですね。

 

【8月24日】

 帰化した新羅人,合計74名を武蔵国の未開発地に移住させ,初めて新羅郡を設置しました。

 今の埼玉県新座市に当たる地域のようです。

 武蔵国には687年・690年にも新羅人が移住させられています。