続きを読んでいきましょう。

 

【5月9日】

 天皇は,役人に対し,以下のような詔勅を出しています。以下,抜粋です。

 

 そこで百官の五位以上と僧侶の師位以上の者は,すべてその意見を密封した上表文に書き,真っ向から直言し,隠したり忌みはばかったりしてはならない。それを朕と宰相とでつまびらかに調べ,可否をきめる。偽って朕を聖徳の君と称したり,かりにも媚びて取り 入ろうとして,表面ではあえて批判せず,かげで後からそしるようなことがあってはならぬ。このことを広く遠近に布告し,朕の気持ちを知らせるようにせよ。

 

 会社や組織にもこういう人いますよね,何でも言ってこいと。で,本当のことをいうと,翌日から口も聞いてくれなくなる(笑)。目下の職位の人間から苦言を呈されても,それを認め取り入れる事ができる器の大きな人なんて,私も含め皆無だと思います。

 

 むしろ,こういう取組みの大部分は,本当に良い意見を採用したいという建前よりは,

  ① 現場のガス抜き(現場大好きアピール)

  ② 上位者への不満分子の発見と早期の手当

 が目的となっている場合が多いと思います。

 

 良い意見を採用したい,というのも,ようは自分の取巻きが信用ならない(目隠しされて都合の悪い情報が入らない)から,彼らに都合の悪い話も聞きたい,ということがほとんどです。

 

 今回の事例で言えば,「朕と宰相で詳らかに見て」といっているので,おそらく ②が目的でしょうね。後述するように,やっぱり自身の政治基盤が不安定であること,朝廷内に不満が鬱積していることを,淳仁天皇自身がよく理解していたのではないかと思います。

 

 私も,上司の指示で似たようなことを現場管理職層相手にしたことがありますので,これをやる際のトップの気持ちはすごいよく分かる。そして,こういう事をトップが言い始めたら,その組織が腐っていて崩壊の一歩手前だと思ってよい,と思います。

 

 

 また,租税(調)の運搬人に対する救済策として,以下のような詔勅を発布しています。

 

 そこで国の大小によって,公廨稲から一定量を採り出して,常平倉(米価の安定をため,常に相当量の米穀を蓄えておく倉)を設け,米の時価の高低によって,売り買いを行ない利益を収め,還ろうとする人夫の飢えと苦しみをあまねく救うようにせよ。これが畿外の国の民の飢えを救うだけでなく,あわせて京中の米価の調整にも役立つことになろう。

 

 前回の記事では防人の苦難を書きましたが,租税を都まで運搬する人々も同様に悲惨なものでした。やはり,手弁当なので,帰りの食糧がなく,行き倒れが続出しました。

 

 当時は,運送業といった業種はまだないため,荷主直々に運ぶしかなかった。調の運搬問題は国家財政の根幹に関わる課題なので,普通に考えれば運送業のような発送が生まれてもいいものですが,「荷主が運ぶ」前提は変えずに,それをどのように負担軽減するかという方向で問題解決が検討されるのは,良くも悪くも極めて日本的だと思います。

 

 ただ,公廨稲を米相場の安定に用いて,そこで得た利益を運搬人の救済に充てるというのは当時の日本政府としては相当スマートなやり方だと思います。運送業といったビジネスモデルを生み出さずに,米相場の裁定取引での利殖で救済しようって,よう思いついたな(笑)。

 

 ちなみに,各国の財政は,当然農民から税金として集めた稲で構成されるわけですが,これは正税といいます。そして正税は,厳密には,租税収入分と,春に農民に貸し与えた籾の利息分(これを利稲といいます)からなります。そして,ここにある公廨稲とは,正税とは別会計として出挙に用いられる稲のことで,これにより得られた利稲を各国の財政赤字や国司の給与に当てていました。

 

 ついでに述べておくと,公的機関が春に種籾を貸し出し,秋に利息を取る,というスキームはおそらく律令の始まるずっと昔からあったと思われ,これが時代が下ると「年貢」になります。

 つまり,日本の租税制度の根本には,公的機関・民衆間で行われた米の貸借(金融)取引があった,ということです。だから,時代劇に見られるように,借金取りたてと同じ感覚で年貢の取り立ては苛烈を極めるのです。

 

 このあたりの経緯は,別途,稿を改めて紹介したいと思います。

 

 

 

【6月16日】

 淳仁天皇は,光明皇太后から,自身の父に天皇位を追贈し,兄弟も親王として遇せよとのありがたいお言葉をもらいます。孝謙太上天皇からは,辞退するようアドバイスがありましたが,光明皇太后の強い意向もあり,父親に天皇号を追贈,兄弟を親王としました。

 

 ここからがすごいのですが,淳仁天皇は,自身は藤原仲麻呂の家で育てられたから,藤原仲麻呂・郎女夫妻は自分の親同然であるから,藤原家の人間もみな位階を上げる,と言い出します。

 

 過去記事でもご紹介したとおり,淳仁天皇の政治的ポジションは非常に不安定です。

 系図を見てみましょう。以下の系図はこちらのサイト様から拝借しました,著作権は小学館さんです。

 

 

 

 淳仁天皇以前の,孝謙-聖武-元正-文武という系譜は草壁皇子につながる系図です。

 では,淳仁天皇はどうかというと,草壁皇子とは腹違いの舎人親王の子供になるので,全く別の系図です。

 

 光明子(文中の光明皇太后)も,藤原不比等の娘です。その光明皇太后が,これまで傍流だった淳仁天皇に「あなたが天皇になったのだから,自分のお父さんの舎人親王にも天皇の位を追贈し,ご兄弟の船王・池田王も親王となさったらいかが?」と言ったわけです。つまり,以後,舎人親王の系譜を正統とする,と宣言するようなものです。当然,これまで正統な系譜にあった孝謙上皇は反対します。

 

 光明皇太后は,聖武天皇崩御後,娘の孝謙天皇を支えるとともに,皇后宮職(紫微中台に改称)に藤原仲麻呂を起用し,政治の実権を握りました。だから,藤原仲麻呂とも強いつながりのある人物です。だから,淳仁天皇は,今回の措置に対して藤原家に便宜を図るように位階の下賜を行います

 これを見た,孝謙上皇派の朝廷官人はどう思ったでしょう? 淳仁天皇と藤原家に対する反感を持たれるのも当然だと思います。

 

 ちなみに,実家から外に出た嫁がその系図の正統に嫁いだら,自分の子供がそのまま正統な家系を継げるよう力を入れるように計らうのが当然ではないかと思います。留意が必要なのは,この当時は,妻問婚だから,嫁に行くという感覚はないということです。だから,光明皇太后も聖武天皇と結婚しましたが,藤原家の人間で有り続けるわけです。

 

 私個人としては,藤原家の歴史の中で,この光明皇太后は多分一番素晴らしい人間なのではないかと思います。仏教の普及に力を入れ東大寺・国分寺設立を聖武帝に進言するとともに,貧しい人々のために悲田院,病人治療のために施薬院を設置して慈善事業を行っています。これらの事績から,後世,光明皇后がハンセン病患者の膿を口で吸い出したところ,その患者が実は阿閦如来であった,といった伝説が生まれました。政争に明け暮れた藤原家の男性陣に爪の垢を煎じて飲ませたいと思いますね。