去年の日曜日は、何日あったかご存知ですか?
私が小学5年生のクリスマスの日、父がマージャンするために集めたメンバーの一人が、ギデオン教会の新約聖書を持ってきてくれました。
それはとても可愛いバッグに入っていて、お菓子も少し入っていたような気がします。
それが、私の聖書との出会いでした。
その聖書のはじめのページに『その時あなたはここを読んでください』と書いてありました。
心配した時・・・マタイによる福音書6章19~34節
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたが彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 (国際ギデオン教会新約聖書・古い版より)
いやぁ、小学5年生の私、心配ばかりしていたんでしょうかね・・・
今でもそらで言えるほど、この箇所を読みこんでいます。
しかし、当時は全く意味がわからず、私は食べるものや着るもので心配しているんじゃないんだけどなぁ・・・なんて思っていました。
2010年最初の日曜礼拝で、伝道師はこの箇所のお話をされました。
さあ、去年の日曜日、なんと52回しかなかったんですって。
そのたった52回の日曜日の何日間、神様を第一としていたでしょうか・・・
子どもの学校行事を第一としていたり、友達を第一としていたり、セミナーなどのイベントを第一としていたり、仕事を第一としていた日曜日が・・・かなりたくさんあったように思えます。
日曜日でさえもそんな感じなんですから、ウイークデーはなおさらです。。
2010年最初の日曜礼拝、かなり反省させられました
今年はしっかり、神様を見つめよう・・・