人は必ず死ぬ。それが本当に分かったならば、今まで自分だと思っていた我が自分だと思えなくなる。
でも、現実には、我が自分だと思えなくなると、その分だけ、我が自分なんだと思いたい心が起き、我に執着します。
それは今まで価値のあるものを求めて価値のある人間になろうとしてきたのに、その苦労が無駄だと思いたくないからです。
だから、価値のある自分でいたい。でも、現実には価値のあるものを求めても意味がないと知らされる。
だからこそ、自分自身のやっていることを悪だと決めつけ、責め始めるのです。
これを罪悪と言います。仏教の教えでは、本当に死ぬと思えるようになった時に問題になるのが罪悪。
もちろん罪悪はその前も造っています。でも、それが見えなかった。でも、本当に死ぬと思えるようになった時、今まで見えなかった心の世界が見えるようになり、自分が善人になろうとして、悪の自分、悪の他人を責め続けていることが知らされる。
しかも始めは、責めることが正しいことだと思って、こんな悪人の自分を無くさないといけないと思っています。
本当は悪人の自分が罪悪ではなく、そんな自分を否定することが罪悪。
そこに気づきながら、それを止められないものが私たち。
だからこそ、価値のある自分という執着を断ち切らないといけないのです。