私たちはこの現実世界に我をつけて、もう間違いのない世界だと思っています。
我をつけるとは、この世界のものを自分のものにして、価値を置くことです。
そして、価値のあるものを集めることで自分のことを価値のある存在だと思っています。
例えば、お金とは、誰もが、それに価値を置いています。この場合、お金とは価値のあるものですが、それを多く手に入れた私は、必ずしも価値のある存在ではありません。
しかし、私たちは価値のあるものを持っている人も価値のある存在なんだと思っています。
だから、人生とは価値のあるものを集めて、より価値のある存在になることだと思っています。
だから、ただ生きてゆく為に必要なものに過ぎないお金も、それを持つことで自分は価値のある存在になったと思っています。
しかし、死とは、その今まで集めた価値のあるものを置いてゆくこと。
私たちは価値のあるものを集めることが意味のある人生なんだと思って、人生の多くの時間を価値のあるものを集めることに使っています。
例えば、お金を宝石に変えるのも、宝石は価値のあるものであり、それを自分のものにすることは自分自身が価値のある存在だと思えるからです。
また、お金持ちが高級車を買ったり、ブランド品を買ったりするのも、それを手に入れることで、価値のある存在になれると思うからであり、それによって、より価値のある存在になることが生きる意味だと思うからです。
しかし、死とは、今まで手に入れたすべての価値を失う時。そのことが本当に受け止めたならば、自分の人生は何だったのかと思えて、虚しくなります。
でも、多くの人は失ったのに、失った事が認められず、自分は価値のある人間なんだと執着します。それで自分を責めたり、他人を責めることで、正しい所に立ち、正しさという価値にしがみつきます。
人生とは価値のあるものを集める為に生きている。それが失うと分かった時、今までの人生は無駄だったと知らされ、自分の生き方が変わります。
私たちは自分の人生は意味があると思いたいので、自分が今までやってきたことは正しかったと思おうとします。
その為、どんなに現実によって自分の人生が無駄だったと知らされても、それを認めず、自分の生き方を貫こうとします。
だから、どんなに間違っていても、自分の生き方を変えようとはしません。
人生無駄だったと知らされることは、決して意味の無いことではありません。
自分の生き方を正しい方向へと変える為に大切な体験なのです。
多くの人は意味の無い人生を生きている。それを意味の無いことだと知らされることで、本当に意味のある人生へと変わることができるのです。