私たちは価値にとらわれる。人に施しをする時にもお礼がないと嫌な気持ちになる。
それは施しをするのは、相手から自分のやった価値を認めてもらいたいからであり、お礼を言ってもらえないと、まるで自分のやったことが価値がないことだと感じて嫌な気持ちになるのです。
でも、価値にとらわれている限り、どんなに相手から認めてもらっても、それは価値があるからであり、価値がなかったら、相手は見向きもしないのではないかと思って、愛欲が満たされない。
私たちは生きているのは愛欲を満たす為なのに、価値にとらわれる心があると、愛欲を満たそうとして、価値を認めてもらおうとしてしまうのです。
だから、仏教では、この価値にとらわれる心から離れる為に喜捨を進められるのです。
喜捨とは、自分が価値を置いて執着しているものを施すこと。お金に執着している人ならば、お金を貯まってゆくことを楽しむ心を捨て、自分にお金があったら、気持ち良く、施してゆく。その時、お礼がなかったとしても、それに腹を立てることなく、これは捨てる為にやったことだからと自分の心を納得させてゆく。
執着とは、それに価値を置いていること。そして、価値を相手に認めさせることによって安心しようとする心です。
この心がある限り、素直に愛欲を満たすことができない。相手に頭を下げることができず、どうしても相手に自分の価値を認めさせようとしてしまう。
だから、この価値にとらわれる心を捨てる為に喜捨をする。そして、価値にとらわれる心から離れて、今自分が執着しているものは、最後には自分から離れてゆくと心に刻んでゆくのです。
そうやって価値から離れることで、何もない自分という所に立つことができる。
そして、素直に自分が認めてもらおうと近づいてゆくことができるのです。
このようにして私たちは本当の意味で愛欲を満たすことができるのです。