私たちは皆自分に暗い、自分は本当は何者なのか分かっていません。だから、みんな我というものを作り出し、自分のことを我だと思っています。
例えば、自分の心に寂しさという心を抱えていたとします。この寂しさに気づいていたならば、まわりの人に自分の存在を見てもらいたいと思います。
しかし、自分がどんなに見てもらいたいと思っても、相手が見てくれるかどうかは相手の自由。だから、不確定な相手の心に頼らなければ、自分は見てもらうことはできません。
でも、それは不安なことだから、私たちは我を作り出す。つまり、自分とは他人から見てもらえる存在なんだと定義するのです。
その時の根拠が価値です。つまり、自分は価値のある人間だから、まわりの人から見てもらえるような人間なんだと自分を定義して安心するのです。
この時、実際には見てもらえなかったとしても、自分は見てもらえる人間だから大丈夫と、他人から見てもらえなくても安心しておれるのです。
このように自分を見てもらえる人間だと定義することで、実際は寂しいという心を抱えていたとしても、自分は見てもらえる人間なんだと自分を定義することで、見てもらってなくても、見てもらっていると思って、寂しさには気づかないのです。
このようにして、私たちは見てもらえなかったとしても、自分は見てもらえる人間なんだと思って安心しておれるのです。
だから、私たちは寂しい心を抱えながら、寂しいという心を感じることなく、一人でいても平気なのです。
でも、どんなに自分は一人でも大丈夫だと安心していても、臨終になると我が崩れる。その為に今まで気づかなかった寂しさが吹き上がり、いても立ってもおれなくなるのです。
だからこそ、私たちは生きている時に我から離れてゆくことが大切です。
その為には、自分は見てもらえる人間なんだと安心するのではなく、相手はちゃんと見てくれているか、そして、自分は相手のことを思い込みで見ているのではないかと思って、ちゃんと見ることが大切です。
私たちは思い込みの世界で生きています。相手は自分のことを見ていないのに、見ているのだと思い込んだり、自分は自分で相手のことをこの人はこういう人だとちゃんと見ていないのに、思い込んでいたりしています。
その思い込みを離れて、ちゃんと見てもらったり、ちゃんと見ることで、自分はこういう人間なんだという我が崩れ、その奥にある寂しさに気づいてゆくようになります。
人間は本当は寂しさの塊。でも、そのことに気づくには我から離れなければならないのです。