この世にはすべての人に真理を知らせる働きである仏性が降り注いでいます。これを仏教では山川草木悉有仏性と言います。
しかし、私たちは真理を見る目がない為に仏性は降り注いでも、真理を知ることができず、仏になることはできません。
だから、仏教では修行をしなさいと教えられるのです。修行とは、仏法に教えられた善をすることです。
しかし、私たちが勘違いしやすいことは、善をすることで悟りを開く訳ではないということです。
あくまでも仏教で善をするのは、真理を知らされやすい状態にすることであり、今までぼんやりとしていた真理が善をすることで、ハッキリと見えるようになり、それによって気づきやすくするのです。
そうやって真理が知らされることを悟りを開くと言います。
真理が知らされて悟りを開くと、今まで迷っていて間違った行動をしていたことが知らされ、真理に従って行動するようになります。
私たちは真理が知らされることで、今まで苦しみを生み出すような行いをしていたことを反省し、苦しみを離れ、幸せを生み出すような種まきをするようになります。
このように知らされた悟りのまま行動するようになった人を三宝に帰依した人と言います。
真理が知らされたら、私たちはもう苦しみを生み出すような種まきはできなくなります。そして、幸せになる為にはどうしたらいいか知らされるので、自然と自分の行動が正されてゆきます。
この真理が知らされるのは、究極な所、私たちのやった努力ではなく、阿弥陀仏のお力がかかったからです。
もちろん善をすることで真理が知らされやすくもなります。しかし、そんな善をすることよりも、ずっともの凄いお力があるのは阿弥陀仏のお力なのです。
私たちはもちろん真理を知る為に善に励むことが大切です。しかし、それ以上に仏力を受けてゆくことが何よりも大切であり、私たちが悟りを開く為に近道となります。
では、どうしたら仏力を受けられるか?
それは聴聞することです。阿弥陀仏のお力は聴聞することで、かかることになり、今まで知らなかった真理が知らされます。
その最たるものが無常観です。
無常観とは、私はやがて死ぬのだなあと思うことです。私たちは死を意識するから、この人生を悔いなきものにする為に善をするようになります。
しかし、死を意識すると言っても、我が身の死という真理が知らされなければ、死を意識することもありません。もちろん、仏教で教えられる善をすることで、真理が知らされやすくなることもありますが、一番自分が死を考えずにはおれなくさせるのは、やっぱり仏力だと思います。
善に励むよりも仏力をより強く受けられるように聴聞に励む。
その心がけによって真理が知らされ、一つ一つ仏法の教えを悟ってゆくのです。
善をすることも大切ですが、私は仏力をより強く受けてゆくことが、結果的に私たちが苦しみから離れ、幸せになる為に大切なことなのだと思いました。