私たちは頭では死んでゆかなければならないと分かっていながら、自分が本当に死んでゆくとは思っていません。
なぜなら、この世の価値にとらわれ、人生を通して得た価値のあるものに執着しているからです。
例えば、地位を得た人は、自分の得た地位がそのまま自分だと思っているし、お金持ちは、お金イコール自分だと思っています。
そして、お金を得ると、それをブランドのバックを買ったり、高級車にしたり、高級な腕時計を身につけたりします。
まるで高価なものを持っている自分は、価値のある人間なんだと思って安心しています。
しかし、そうやって安心できるのは、まだまだ自分が死なないと思っている間だけ。
本当に自分が死んでゆかなければならないとなったならば、そんな価値のあるものがどんなにあったとしても、何の意味もないと知らされます。
そして、本当に死んでゆかなければならないとなった時、自分にとって価値のあることは、どれだけ誠実に、真心で善に励んでいるかだけになります。
自分はこれだけ善に励んでいるから、死んでも大丈夫なんだと、自分のやった善を当て力にするようになります。
我が身の死を意識して、人は初めて善というものの大事さが知らされます。
心穏やかに死んでゆきたい。それは生きている間に自分がどれだけ善に励んできたかで決まるのです。
死を意識しなければ、私たちは善をやろうとは思いません。善は安心して死ぬ為にすがらずにはおれないものなのです。