阿弥陀仏に救われるには、善が必要かどうか?
真実から言えば、阿弥陀仏の救いに善は何の役にも立ちません。じゃあ、善をやらなくてもいいのかと言えば、善はやらずにはおれないものなのです。
私たちはこの世の価値のあるものを自分のものにして価値のある人間に立っています。
しかし、無常観が深まると、この世手に入れた価値は死んだら置いていかなければならないと知らされるので、すべてが光を失い、心が暗くなります。
この暗い心は、何かで明るくせずにはおれません。しかし、この世のどんな価値を手に入れても、心を明るくすることはできないので、心を明るくする為に、死んでも続いてゆく善をして心を明るくしようと思うのです。
だから、阿弥陀仏に救われる人は、この暗い心に苦しんだ人であり、そして、心を明るくする為に善をせずにはおれないのです。
どんなに善は間に合わないと言われても、心が暗くなると、善をせずにはおれませんし、どんなに善に励んでも、心から善ではないと知らされるので、当て力にならない。
だから、最後、善は間に合わなかったと知らされるのです。
この状態は何かにすがらずにはおれないのに、何もすがれない。そんな真っ暗な心の状態です。
この暗い心を一念で晴らしてくれるのが阿弥陀仏の救いなのです。
善をしたから阿弥陀仏に救われる訳ではありませんが、何もすがるものはないのだと知らされるまでは、善にすがらずにはおれないのです。
善はいらないのだと聞いて、やらなくていいと思えるのは、この世の価値にしがみついているからです。
この世の価値は死んで置いてゆくもの。それが本当の意味で分からない限り、阿弥陀仏の救いに向かって進み始めることはないのです。