阿弥陀仏の救いは十八願のみで救われるのか | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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阿弥陀仏の救いは十八願のみで救われるのかということですが、これはある意味正しく、ある意味間違っています。

それは阿弥陀仏の救いに関して、救ってくださるのは、阿弥陀仏であり、私の力は一切間に合わないので、そういう意味では十八願のみで救われると言ってもいいです。

しかし、この場合、私が阿弥陀仏を信じるという行いも、私の力に入るので、自力は一切間に合わないから、捨てなければなりません。

だから、阿弥陀仏の救いは絶対他力とすると、私は何もしなくても救われているのか、そのままでは救われてないのかハッキリしません。

しかし、親鸞聖人は正信偈に帰命無量寿如来、南無不可思議光と言われ、本当の救いには、帰命した体験があるのだ、南無した体験があるのだと言われています。

しかも、帰命した、南無したと言われていることは、その前には帰命したくてもできない時期があった。南無したくても南無できない時期があったということが伺うことができます。

じゃあ、帰命する、南無するとはどういうことか?

それは帰命、南無の後の言葉から分かります。

帰命の後には無量寿如来ということが続きます。これは無量寿如来の働きであることが知らされたことを意味します。無量寿如来とは永遠の命を持たれた仏様のことです。それが段々と私に近づいてきたならば、どんなことが知らされるでしょうか?

それは永遠の命から見た人間の百年の命が知らされてきます。私たちは仏様から見たら儚い命を持っています。しかし、私たちは自分の死を遠くに眺め、自分はまだまだ死なないと思っています。しかし、無量寿如来の光に照らされると、百年先であっても、千年先であっても、一瞬のように感じられ、自分は必ず死んでゆかなければならないと知らされてゆきます。

しかし、どんなに死ぬと頭では分かっていても、自分が死ぬとは思いたくないものが人間です。だから、死は必ずやってくると見せつけられて、心が暗くなっても、死にたくない、死にたくないと、死を遠くやろうとします。そんな私が本当に死ぬと認めた一念が帰命の一念であり、阿弥陀仏に救われた時なのです。

次に南無とは、不可思議光が続きます。不可思議光とは、私たちの心を照らしだし、自分の心をハッキリと知らせる力です。

私たちは無量寿如来の働きによって、死が知らされてくると、心が暗くなってきます。そして、この世どんなものを手に入れても置いていかなければならないと知らされるので、ものでは無い、自分の心を明るくするものが欲しくなります。

それが善であるので、阿弥陀仏のお力によって無常が知らされた人は心の明かりを求めて善に励むようになります。

この時、善は自力だから捨てものだと言われても、心が暗くなった人にとって、心を明るくしてくれるものは善しかないので、やらずにおれないのです。

しかし、そうやって善に励むと、不可思議光の働きによって心の中が見せつけられます。それは自分のことしか考えない醜い煩悩に染まった心です。

この心が知らされると、一生懸命善をやっているのに、それでは心の明かりにならないような感じがして、善をしても砂を噛むような感じしかせず、もっと明かりになるものはないかと思うようになります。

そんな者に勧められるものが念仏です。念仏は善よりももっと功徳がある。だから、一心不乱に唱えなさいと勧められます。それを聞いて、心を明るくしたいと思うので、一生懸命念仏を唱えるが、不可思議光の働きで心が見えると、これだけ唱えているから助けてもらえるだろうと無条件の救いを疑う自分が見えます。

だから、にっちもさっちも行かなくなり、もう何にもすがれなくなって来ます。心の中は誰か私の心を明るくするものを下さいという心しかありません。

そして、何にもすがるものはなかったと自力無功が知らされた時、阿弥陀仏の方からガチっと収めとり、私はどうすることもできなかったけど、阿弥陀仏のお力一つで救われるのです。

このように阿弥陀仏の救いは阿弥陀仏のお力一つであり、そういう意味では十八願だけで救われると言っても言いですが、阿弥陀仏の救いが近づいてくると、私の心の光が無くなるので、心の明かりを求め、動かずにはおれなくなります。

そういう意味で、善に励まずにはおれなくなります。

結果的に善は間に合わないと知らされ、捨てるのですが、それまで心を明るくなる為に何でもすがりやらずにはおれないのです。

これを当相自力体他力と言います。

だから、十八願のみで救われるのも正しい、善をやらずにはおれなくなるのも正しいのです。