多くの人は、自分はこういう人間だというイメージを崩さないように生きている。
そして、今自分だと思っているものが自分だと思って生きています。
そんな自分が思い通りにならない現実にぶつかると、自分のイメージしている自分が崩れ、感情が吹き上がる。
多くの人は感情が吹き上がったとき、これは自分ではないと否定して、あの人があんなことをしたから、こんな感情が吹き上がったのだと他人のせいにする。
そうやって、自分の心を落ち着かせ、また自分のイメージしている自分で生きようとする。
それほど私たちは自分のイメージに合わない都合の悪い感情を見ることを嫌がる。
そして、自分のイメージしている自分が本当の自分であり、死んでも、この自分が続いてゆくと思っている。
しかし、この自分は死んで肉体を失うと消える。
それはまるで先が分からない壁にぶつかるようなもの。
壁にぶつかって、壁が破れたら、その先は全く分からない。
その闇の中に突入してゆく恐ろしさがある。
今まで自分だと思っていた自分が消え去り、見たくない感情が沸き上がってくる。
その時、日頃から見たくないと否定していた感情を受け止められる筈もなく、来るなー、来るなーと否定してしまう。
そうやって、感情は傷つき苦しむ。
やがてこんな見たくないものを見せられるなんて地獄だ、こんなもの消えて無くなれば楽になるのにと思うようになる。
そして、この感情こそ本当の自分なのに消そうとする。
もちろん消そうとしても消えず苦しみ続ける人もいるが、多くは消そうとしたら消えてしまう。
つまり、魂が崩壊してしまうのです。
しかし、崩壊してバラバラになった魂は、その後も流れ続けて、自分とは何ものかも分からないまま、不安な暗い心のまま、深い闇へと堕ちてゆく。
人は見たくない自分があるから自殺する。
でも、自殺したら、見たくない自分を余計見せられるので、こんな自分が無くなったら楽になると思って自分を消そうとする。
そうやって自分を消した後の世界が無間地獄。
苦しみを感じることさえもできない深い苦しみの世界。
私たちは苦しみを感じるから、自分を感じて安心する。
でも、自分が分からなくても苦しみを感じることもできなければ、苦しみを感じていた時とは比較にならない程、深い不安の中に入ってゆく。
お釈迦様がこの世の苦しみを一滴の水とたとえたならば、この無間地獄の苦しみ(不安)は大海の如しと言われたほど、恐ろしい苦しみの世界。
死ねば楽になると思うほど恐ろしいことはない。
死ねば楽になるとは、自分が無くなれば楽になると思うこと。
そして、自分が無くなったとしても苦しみは無くならない。
待っているのは想像をはるかに超える不安な世界が待っているだけ。
そんな世界は本当の自分を否定する心から起きる。
都合の悪い自分が見えても、これも自分なんだと受け入れることができたら、こんな恐ろしい世界に行くことはないのに…。
とかく都合が悪くなったら、人を切ればいいと思っている人は多い。
でも、都合の悪い時ほど、都合の悪い自分が見えたとき。
これも自分なんだと受け入れる訓練だと思って有り難いことだと思ってゆけたら、未来も変わる。
深い不安な世界に行かずに済むのです。