我とは常一主宰と言われる。
常一主宰とは、常一と、主宰に分けられる。
まず、常一とは、私たちは自分のまわりのものを例えば、奥さんとはこういうものだとか、夫はこういうものだとか、子どもはこういうものと定義して、その固定した見方が、ずっと変わらず続いてゆくと思っている。
これが常一ということです。
つまり、常一とは、自分がこれはこういうものと定義した一つの見方でしか相手を見ることができなくなり、自分が定義した見方がいつまでも変わらず続いてゆくと思っていることが常一です。
そして、自分が思っているような相手ではないと感じると不安になり、今度は主宰に変わります。
この主宰とは、主とは自分が主君のように上であるということを相手に分からせることを言います。その為に相手が如何に無力であるか、自分では何の判断も許されず、私の言うことを聞いていればいいかを分からせたくなります。次に宰とは、名宰相が正しい所に立って判断するように、相手に私が正しくてあなたは間違いだということを分からせようとして、相手を悪者として見るようになります。
つまり、主宰とは、自分が如何に正しく相手は間違いであるかと分からせ、自分の思い通りに相手になって欲しいと思うことです。
そうやって相手が間違いを認めて、自分の思っているように定義したように振る舞ってくれると落ち着き、また、常一で暮らすようになる。
これが常一主宰です。