仏教の目的は抜苦与楽。人々の苦しみを抜くことが仏教の目的。
でも、多くの人は苦しみを抜くと言っても、そんな自分は苦しんでいるのかなと思うのが現実ではないでしょうか。
では、この苦しみとは何かと言えば、私たちはこの世のあらゆるものに我をつけて、それによって自分の存在を証明しています。
例えば、車を買ったら、その車に我をつけて、車を持っているものが自分だと思ってるし、家を建てたら、この家を持っているものが私だと思っています。
この我をつけたものがもし無常によって失われたならば、私たちは自分が何者か分からなくなってしまうので、失ったものに執着し、無くなったという現実を認めようとはしません。
それほど私たちにとって我は大事なものであり、色々なものに我をつけて、それによって自分の存在を証明しているので、この世界を安心して生きていることができるのです。
しかし、仏教では我とは無常なものだと教えられます。どんなに我をつけて、これが自分だと執着していても、手に入れたものを失う時が必ず来ます。
しかも、死んでゆく時には、我をつけたすべてのものを失い、一人で死んでゆかなければならないのです。
この時、自分が何者かが分からなくなり、心は不安に包まれます。そして、同時に我を維持する為に生きてきた人生そのものが何だったのだろうと、今まで人生が無駄になってしまったことに苦しむのです。
どんなに手に入れて喜んでいても、失ってしまえば何も残らない。それに対してかけてきたものが多ければ多いほど、失った時に大きく苦しみます。だから、失うものの為に頑張ること自体苦しみなのです。
でも、私たちは自分の我のつけたものを失うと分かっていないから、我をつけたまま死んでゆけると思っているので、人生が苦しみだと分からずに、我をかき集めて生きています。
そして、死によって初めて自分の人生が無意味だったと突きつけられ、今までの人生が苦しみだったと分かるのです。
これがすべての人が抱えている苦しみであり、この苦しみを抜くことが仏教の目的なのです。