仏教では、施しの心が大事だと教えてもらいながら、私は利害打算から離れられず、自分ばっかり動いていると損をしたように感じてしまう。
しかし、仏教から言ったならば、利害打算の心しかないからこそ、頑張って施しをしてゆかなければならない。それは利害打算の心しかないから、利害打算の心を正当化して、こんな心でやっていいんだと思ってやるのではない。利害打算の心しかないからこそ、この心を反省して、この心から離れてゆきたいから施す。
自分には利害打算の心しかないから無くならないんだと居座るのではなく、この心から離れてゆきたいと思って逆のことをやってゆく。
施しをしながら、利害打算の心があるなあと気づく。気づいた時に、情けないなあと思いながら、この心を少しでも無くしてゆきたいと思って、反対のことをしてゆく。みんな善はやりたくないものと思っている中、やりたいと思って善ができるようになりたい。
仏とは、善を愛する人。だから、やれと言われなくても、やりたいと思って自ら善に励んでゆく。善に励めば、励むほど、悪の自分が見える。それは悪い習慣が身についているから。この悪い習慣から離れる為には、自分の心と逆のことをしてゆく。逆のことをしてゆくから修行になる。
自分の心が幸せな心になる為には、いつも起こしている心に流されていてはいけない。心に流されず、いつも心から善に励んでゆくように心がける。
心がけが習慣となるまで続けてゆきたいです。