人はかくあるべしと自分の中の常識に従って生きている。まるで人生にレールがあるかのようにみんなレールの上に乗って、みんなが進んでいる道を進んでいることに安心している。そして、みんなが大学へ行くから大学に行き、みんなが就職するから就職し、みんなが結婚するから結婚する。みんなが思い描く当たり前の人生を自分も従い、レールからそれないように生きている。そして、その中でどちらが上か、どちらが下かにとらわれ、みんな求める価値を手に入れたら、自分は特別な人間になったかのように嬉しくなる。
このレールの上では幸せは優越感。レールからそれないように、より価値のあるものを手に入れたら、自分は勝ち組なんだと思って喜んでいる。しかし、どんなに上になって優越感に浸っていたとしても、心にはいつも不安を抱えている。
自分が今安心している所は、みんなが当たり前だと思って従っているレールの上にいるから、安心しているだけ。
何かのことで、当たり前だと思っているものを失い、レールから外れてしまったら、今までの安心が吹き飛び、不安な世界へと落ちてしまう。
私たちの安心とは、不安と表裏一体の安心。自分の思い描く当たり前の人生を歩んでいるから、不安を見ずにおれるだけで、本当は不安な世界こそ、私の本当の世界。その不安な世界を見たくないから、当たり前の人生というレールを生み出し、そのレールを進んでいる。でも、どんなにレールからそれないように生きたとしても、それは幸せはない。ただ不安を見なくて済むだけ。
人生の本質である不安の解決には何もならない。どれだけレールの上にいて安心していても、心の奥底では不安を抱えながら、生き続けなければならない。そして、臨終には我が崩れ、この不安の中に飲み込まれてゆく。
仏教とは、人生の本質である不安に目を向け、不安を解決してゆく教え。それは自分も不安を抱えているのだなと気づかなければ、求めることもない。そういう意味で、レールに上に乗って進んでいれば、安心だと思っている人には分からない真理なんだと思います。
人生の本質に気づくのは、稀なのかも知れませんね。