専修のひとをほむるには | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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専修のひとをほむるには 千無一失とおしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ

常に念仏をしている人を誉めるのは、そんな人が千人いても一人も浄土へと往けない人はなく、念仏を唱えていても、自分のやった善を力として上に立とうとしている雑修のものを嫌うのは、そんな人が一万人いても、誰一人浄土へと生まれるものはいないからである。

専修と雑修の違い。

同じように念仏をしていても、自らやった善をあて力にして、まわりの人と比べて自分は上だと思っている人は、雑修と言われ、自分が上に立って見下しているので、一万人いても浄土へと往生できる人は一人もいない。つまり、自分が上に立つ人や正しい所に立っている人は、自分の悪を認めることができないから、浄土に生まれることができないのです。

念仏とは、自分の正しさを証明する為にするものではなく、自分の中に仏という正しい存在を置いて、いつも仏様ならどうされるだろうかと考えて、仏様がなされるように自分もやろうとすること。そして、どんなに頑張っても仏様のようにできない自分に対して否定することをせず、お粗末だなあと受け止めて、まわりの人に対して上に立って見下すことが無くなった人が念仏の人であり、そんな人が浄土へと往生することができるのです。

だから、本当の念仏とは何かを知ることが、専修であり、浄土に生まれるために大切なことなのです。